えこひいき日記
2001年4月16日のえこひいき日記
2001.04.16
昨日は久々に歩くのが怪しくなるほど日本酒をおいしく飲んだ。めずらしい、大好きなお友達と会えたのでついはしゃいでしまったのだ。おかげで寝ていてもずーっと酔っ払っているのがわかるくらい、あたまがくらんくらんしていたが、早めに起きて、水分をたっぷりとって、ゆっくりお風呂に入ったらすっかり治ってしまった。
お友達は、ひとりは現在ロスに在住のアート・アドミニストレーターをしている女性で、もうひとりはアートプロデューサーをしている京都在住の男性。私はそれぞれの方とはお友達なのだが、それぞれの方同士は初対面。でもお二人には、一度会っていただきたいとかねがね思っていたから、それが実現したことも嬉しかったし、お話が弾んだことも嬉しかった。
ロス在住の女性は私がニューヨークに住んでいる頃はそちらで仕事をしていた。その後私は京都へ、彼女はロスへ拠点を移したので、彼女と会えるのは年に1度くらい。それも通常は仕事で日本にきているので、会えても1時間とか、電話だけとか、そんな調子なのである。でも京都に来るときには必ず連絡をくれるし、会うと、会っていなかった時間が「隔たり」になることなく、まるで昨日も会っていたように話が出来る。なんでもないことのようだが、来日のたびにちゃんと電話してくれる、って大変だと思うのだ。彼女も多忙。私もそんなに時間が自由になる身ではないことは彼女も理解してくれている。だから、電話をくれるときもとてもこちらの状況を気遣ってくれるのだが、それが変な遠慮にならず、会いたい意思をきちんと伝えてくれる。彼女の電話のかけ方にはいつも感心し、感謝している。私の勝手な思い込みなのかもしれないが、彼女の「昨日も会っていたかのような」親しみのある態度は、「前回」と「今回」の間をぶっとばしてつないだものではなく、「間の時間(会っていない時間)」を無視しないで、それも含めてつないでいてくれるような感じがする。それだから別れるときも、さびしさもきっちりあるんだけれど「また会える」確信みたいなものが彼女の態度をしてあるから、so long isn’t goodbye という感じで、約束がなくても次に会える日のことを考えられる。
ある意味で対照的なのが男性のほうで、同じ京都、しかも場所的には仕事場が結構近所にもかかわらず、彼女と対して変わらない頻度でしか会えたためしがない。彼曰く「だってこの間あったような気がするから」というわけで、私はさしずめ「信頼」という名のもとに「放置」されているらしいのだ。確かに彼とも久しぶりでも全くブランクを感じないし、相手もそう言ってくださるところは大いに嬉しい、ほんとにありがたいのだが、でもその親近感は時にすごく私にはさびしいことがある。同じように見えて、女性の友人の「距離」の取り方というか、「距離」の関係性というか、それと大いに対照的な気がする。それでもなんとかコンタクトが途絶えず、なんとかコンタクトあることのほうが、この場合すごいことなのかもしれないし、その不満を相手にちゃんと言葉にして伝えられるような関係性では辛うじてあるし、まあしょうがないのである。
同じようなきもちでも、とる行動は全然違ってしまうことって、よくある気がする。
ちょうど似たような話題をクライアントの間でもしていたところだった。
話題はインターホン。レッスンを行っている建物には2箇所インターホンが設置されている。一つは建物の入り口、もう一つは部屋の入り口である。入り口にはドアの開閉の振動で鳴るドアチャイムもつけてある。クライアントとの話の中で時折出る話題なんだが、このインターホンを鳴らすべきか鳴らさないほうがよいかという問題なのである。
インターホンに限らず、自転車のベルとか、電話の呼び出し音とか、あるいはそういう音の出るものに限らず、「知らせる」という行為には、その「知らせ」を受け取る相手の状況を組みきれない可能性が付きまとう。車のクラクションや警報装置などの場合は緊急事態を知らせるものなので、まさに相手の行為を無理やりにでも中断させてでも事態を「知ってもらう」ことに意味があったりする。だから、そうした報知音はなくてはならないものでもあるのだが、そうした緊急事態以外の日常の生活の中では、邪魔者・闖入者の性格を帯びることも少なくない。ドアベルを鳴らすとか、ノックするとか、声をかけるとか、なんでもないことのようだけれど、自分の取る行為が相手にとってどういう意味を持つだろう…と思案することはよくあることのような気がする。街でもよく人と自転車がすれ違いずらい状態ですれちがったり、危ない格好で追い越しを書けたりするところを見かけるが、ベルを鳴らしたり声を出して「知らせる」ことをするひとはあまりいないような気がする。なんとなく、自分から行動するのは相手に対して僭越ではないかとか、声を出したり音を出して驚かれたらやだな、とか、そういう配慮が優性勝ちしているようにも思う。しかし、「知らせない」ことをしたからこそちょっと危ない事態になったり、そうなったことでなんだか不快な感覚を味わうことも、かたや事実なのだ。
思えば、会話自体がそうしたやり取りの連続かもしれない。自分の発した言葉が相手に伝わることもあれば、伝わらないこともあるし、意外なほど人を傷つけることもある。会いたい友人に電話を一本かけるのだって、相手を配慮しながら「かける」場合もあるし、配慮ゆえに「かけない」こともある。かけたっていつもつながるかどうかは判らないし、邪魔かもしれない。かかっても会えないかも知れない。でも、かけなければ、そう思っていることすら相手には伝わらないし、会えることもないだろう。
そういう迷いって、日常的にいつもあることだけど、てごわいものだと思う。
ちなみに私としては、いらした方(主にクライアント)にはインターホンやチャイムを鳴らしていただくほうがありがたい。ここでは予約制で仕事をしているので、基本的には1レッスンの時間は約45分と決まっているのだが、レッスン中はかなり目の前のクライアントの集中しているし、予約状況やレッスンの進行具合によってはかなり深刻な話をしている場合もある。だから、来たことを知らせてくれるほうが私にはありがたい。知らせてくれることによって現在進行中のレッスンを調整し「今日はおしまい」という方向に向かうことができるし(なたで切り取るような終わり方はしたくないし、そういう乱暴さは嫌いだ)、次の方にも、まるで侵入者のような肩身の狭さで入って待っていただいてお互い申し訳なさげにレッスンに入るのではなく、もうすこし居心地のいい感じでレッスンに入っていきたいと思っている。