えこひいき日記

2001年4月17日のえこひいき日記

2001.04.17

『鬼平犯科帳スペシャル』というテレビ番組を見ながらこれを書いている。しかし、長谷川平蔵って、いい男だと思う。かっこいー。こういう男は現実にはいない。だからいいんだけれど。

そういえば、昨日大阪に歌舞伎を見に行ったのだが(鬼平を演じている役者さんも歌舞伎役者ですね)、私、歌舞伎は好きなのでわりに観に行くのだが、歌舞伎という舞台芸術における「役者」の立場って、なんとなく他の「俳優」という立場と少し違うような気がするのだが、どうなんだろう。比類なく「何を演じるか」より「誰が演じるか」が重きを得ているような気がするのだ。
他の演劇だって、俳優や出演者の人気や認知度が客足を左右することは多いが、誰の演出だとか、どんな(誰の)作品とか、それらの要素も役者に負けないくらい「客が劇場に足を運ぶ理由」になる。かなり対等に、時に出演者が誰であるか以上に。
しかし歌舞伎の世界では、作品のジャンルより、演出より、「役者」を観に行く。少なくとも私はそうである。観劇中も芝居の役名ではなく、役者自身の名前で「誰々がこう言った」とか「ここがよかった」とか言っていることが多い。考えてみると、歌舞伎ほど良くも悪くも「役者を観に行く」舞台芸術もめずらしいのではないかしら。そういう意味で、歌舞伎の人気は役者の人気といっても過言でない気がする。

短大で授業を持っていたときのテーマは、いわば「個性論」で、何をもって「個性」としているのか、自分は自分の「個性」をどう理解しているのか、「個性」の構成要素とコミュニケーションなどについていろいろやっていたのだが、テスト代わりのレポートのお題に「作曲、作家、映画監督、俳優、歌手など、自分のお気に入りの人物が出演・製作等している作品を3つ観て、それらのどれをみても「誰々(個人名)の作品だなあ」と思えるような共通性としての個性を感じる箇所を具体的に挙げ、同時に「同じ人の製作(出演..)なのに、この作品ではこんな面を見せている」「こんなに違う、新しい」といえるような差異としての個性も具体的に挙げよ。そしてこの作業を通して自分は個性をどのようにみていたと思うか、新たににどう思うかなど、述べよ」というのを出して、大いに生徒さんに苦しんでいただいたことがある。これ、書こうと思うとすごーく難しいのだ。(自分でもやってみましたとも)
ともあれ、私は多くの場合、好きな役者に関してはことに、共通性と差異性のバランスはどっこいどっこいの見方をすることが多いのだが、この出題形式に沿って歌舞伎役者を見たときに限っては「やっぱり誰々(役者名)やわ」と思えるようなものを多くピックアップしてみているように思うんで、なんだか面白い。

私が仕事の中心にしているアレクサンダー・テクニックは、そのレッスンを受ける人が自分の個性や持ち味をよりよく理解し発展させるのに役立つということで、欧米では演劇学校の授業にはほとんど必ず登場する。俳優が自分自身の傾向を理解していなければ、演じる役柄にリアリティ(存在感)を持たすことが難しいし、テクニック的に多様な演じ方をしているようで実は知らず知らずワンパターン化していることもありうる。また、役柄の個性が強いと、演じる本人の人格のほうが飲み込まれ、舞台が終わっても「自分」に戻れなくなり、心身ともに自己の安定に支障をきたすこともある。そうした理由から、例えばイギリスの国立演劇学校では授業の半分がアレクサンダー・レッスンで占められている。(ちなみに後の半分はスタニスラフスキー・メソッドという演劇のメソッドである)
私は歌舞伎役者はクライアントに持ったことがないから、彼らが自分と役柄、自分と歌舞伎というものの関係をどのように理解しているのか知らない。だからこそすごく興味がある。そして彼らがもしも私のレッスンに興味を持つのであれば、私の立場から彼らになにが提言できるのかにも興味がある。

ちなみに、例えば日本の義務教育課程の授業には、「美術」や「音楽」はあっても「演劇」はないが、ヨーロッパやアメリカにはある。役柄という「他者」を理解することは、自分が何をどう理解しているのかを知ること、すなわち「自己」を理解することにつながり、それをして「他者理解」にもまたつながる、というわけで、「劇中の中だけのこと」に留まらず、日常的なコミュニケーションにも通じる一つの「かたち(形式)」としての演劇、という位置付けが割にあるようなのだ。日本では、子供が学校の中で演劇に触れるのはいきなり学芸会の練習でだったりするし、他の表現芸術「音楽」や「美術」にしろ、一部の才能のある子供が上手にやってのけるもの、という位置付けになりがちなのはそういう教育体制の違いにあるのかもしれない。よく海外のアーティストや教育者が日本にワークショップにやってきて「日本人(の参加者)は、うまいし、うまくやろうとするけれど、自分から発想する要素が少ないみたい」と言うことがあるのだが、それはそもそも「演劇」をはじめ表現芸術がなんであるか、という教育によるものが多いのではないだろうか。

しかし、「だから日本はだめだ」とか「日本も欧米のようにやるべき」ときゃんきゃん言う気はないし、逆に「国粋主義」に走るつもりもない。「違い」を理解する際にそれが安易な優劣論に陥ることは、考えただけで内臓が塩辛になりそうなくらい、すごーくつまらないことだ。
もちろん「こういうやり方(考え方)は取り入れてもいいのではないかな」というところはある。(例えば「上手にこなす」ものとして表現芸術を教えるのではなく、コミュニケーションのレベルで芸術を教える体制など)しかしそれは日本独自の美意識や演劇の意識をも生かせるように、考えるべきだと思う。

例えば、「浮世絵」に代表されるよな、写実的「ほんものらしさ」にとらわれない表現形式は、ものすごくクールだと思うし、日常の生活様式は欧米と日本で大差があるとはいえないものになってきているにもかかわらず、依然として当事者が自覚しないほど「日本的なもの」は生きているのはやっぱり面白い。歌舞伎の超デフォルメ・ど派手世界にもどこか通じる「浮世」という言葉に代表される、現実世界と表現世界の「隔絶」は、実はありありと「世界」を浮かびあがらせる逆さ鏡だったりする。写実的表現が呪縛になりかけていたヨーロッパの画家や演劇に「ジャポニズム」が衝撃を与えたことはここに書くまでもない。その後、絵画のほかに写真という技術が開発され、写実性は極みに見達したかに見えた。しかし多くの人がカメラを手にすることが出来る現代なら容易に理解できると思うが、シャッターさえ切れば「ほんとうのこと」が写るわけではない。技術の精緻さ・正確ささえ、手段でしかないのだ。
写実性に限らず、ひとつの技術やメソッドを研ぎ澄ますことは表現技術の一つの水脈であり、面々とその技術を研ぎ澄ますこともそれだけでたいへんなことなのだが、しかしそうしさえすれば「ものの本質」が浮かびあがるというものではない。むしろ、ある意味で、そのためには手段を選ばない「とらわれのなさ」こそが洋の東西を問わず「表現のいのち」だと思っている。
だからこそ、従来のものの「よさ」をよく理解もしないうちにやたらな改革に走るのは賛成できない。「よい」ものは「わるい」ものの前では目立たないので、見落とされがちなのだ。とくに「ものを育てていくこと」、「教育」には「イベント」ではなく、もっとコンスタントなものが必要だと思うからだ。

以前にも書いたことだが、私は自分の仕事の内容を「わるいところをなおす」方向だけに使いたくはない。それはそれで重要なのだが、つまらないからだ。そうではなく、壁や限界だと思っていたことがそうでもないとわかったときに、なにがやりたくなるのか、それにたまらなくわくわくする。あらゆる人に対して言えることでもあるが、特にクリエーターに対して「矯正」的に対処することには私は抵抗がある。
よりわくわくする方向で展開していきたいと思ったときに、私には何ができるのかについては慎重かつ身軽でありたいと思っているところである。

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