えこひいき日記
2001年8月9日のえこひいき日記
2001.08.09
2日前の夜、私はハトの卵を割って調べてみることにした。
親バトはプランターに卵を産んだはものの、その後暖める気配はなく、ほとんどベランダにも寄り付かなくなってしまった。まる2日以上、卵はひとりでプランターに転がったままで、動かされた気配もない。(親ハトが卵を温めるときには、お腹の下で卵を転がしながら温めるので、卵の角度が変わったりするのだ)
京大の大島清氏の著作の中に、人間の女性でもショックなことがあると排卵作用が高まったりする、というようなことが書いてあった記憶があるので(当の著作を探し出そうと思ったのだが、こういうときに限って見当たらないんだよな)、ハトの場合も「ショック」による産卵だったのかもしれない。無性卵であるかもしれない。有性卵であったとしても、2日間も放置されている状態の卵から雛が誕生する可能性は薄い。
卵は、電子計で計ってみるとちょうど20グラムであった。中身が液状のものであるせいか、手にとると重く感じられる。卵のお尻の部分に小さ目の穴をあけ、中身を出してみると黄身は崩れかけており、かすかな腐臭のようなものがした。
昔、中国を旅行したときに、機内食でゆで卵(鶏の)が出たことがあった。妙に硬いゆで卵で、殻をむくのにも一苦労だったのだが、殻を少しむいたところで、見慣れないものが殻の下に見えてきた。それは目であった。
中国の卵の調理法で、卵の中で孵化しかけのヒナ(雛&卵?)を茹でるというのがあるのだが、それだったのである。私はびっくりした方が先に立ってしまい、そのまま機内食のふたを閉めてしまった。他のツアー客はどうしたのか、あれは「そういう料理」として出されたのか、それとも私のだけがたまたま「あれ」だったのか(ヒナのゆで卵は、普通のゆで卵よりは高級料理なので、機内食に出されるのは不思議といえば不思議。また中国の卵は基本的にみな有性卵だったので、たまたま育ったやつ?がゆで卵にされてしまったのかも)、わからない。一説によると、その料理は「塩味のチキンオムレツ」みたいな味がするということである。鶏肉と卵をあわせて作る料理は普段から馴染みがあるが、卵の中で一緒になっているのは初めてで、とにかく驚いたのと、気持ち悪かったので、そのときは終わってしまった。
「気持ち悪」かったのは、目の前のものがいきなり、私にとっての「存在」を変えたからだったと、今なら言葉にして思える。「食べ物」だとばかり思っていたものが、「目」が目にしたとたん、私の中で「生きもの」に変わったのだ。もちろん、そんなことを体験する前から「食べ物」とはすべからく「生きもの」だし、そのことはこれからも変わらないだろう。でも私は、一瞬にしてものがその「存在を変える」、「変え得る」ということを想定していなかった。そういう体験の経験が浅かったのだと思う。だから驚いただけで、そこで思考が止まってしまった。
今なら、私はどうするかな。自分から進んでその料理を注文する気持ちは今のところないし、急に出てきたら、やっぱり驚くだろうな。
どのような「かたち」を目にしたときに、人は(少なくとも私は)「いのち」の存在を見出すのだろう。「いのち」ってなんだろう。
例えば、私がハトの卵を割ってみた理由の一つは、そこに「いのち」の痕跡(かたち)を見出せるものか、見てみたかったからだと思う。なんらかのかたちで。
でも、では何を目にすればそれを見たことになるのか、私にはまだわからない。あらかじめ想定して「見つけにいける」ものではないのかもしれないが。
同時に、ではヒナが誕生する可能性はないから、卵はただの「物質」か、「いのち」のない(あるいは「いのち」ではない)ものか、と言われると、違うような気がする。結果としてヒナが誕生する卵ではなかったけれど、それをして「無意味な存在」とは思えないのである。
私にとって、たぶん、「いのち」とは、生物的な生命もそうだけれど、それに留まらず、なにか、「存在」と関わりがある気がするのだ。そして「存在」とは、そこに在れば見えるものではなく、見ている者が「いのち」を見出さなければ、見えているものを見なければ、見えないものだと思っている。この「いのち」は「意味」や「関係性」と言い換えられるかもしれない。「意味」や「関係性」には物質的な実体はなくても「いのち」はある。(でないと、絵画や彫刻を見て感動するなどということはないし、夕日や自然の風景を見て美しいと思うことも、ないのではないかと思う)
でも今はまだ、あいまいにしか言葉に出来ないな。