えこひいき日記
2001年11月15日のえこひいき日記
2001.11.15
「表情」について考えた。
喜怒哀楽といった「感情」と「表情」は関連付けられて考えられることが多い。笑っているから嬉しいのだろう、とか、顔をしかめているから怒っていたり機嫌が悪かったりするのだろう、とか。しかし本当にそんな単純なものかな、と思う。
そういえば、昔アメリカ人の友人と歌舞伎舞踊のビデオを見ていて「このダンサーはどうしてこんなに無表情なの?」と言われて「戸惑った」ことがあった。私には(顔を含めて)「無表情」とは見えていなかったからだ。ひょっとしたらこれは「感情」あるいは「表現」を「あらわす」ととらえるか、「あらわれる」ものととらえるかの違いかもしれない。それが国もしくは東西文化の違いなのか、個人の文化の違いなのか、わからないけれど、私の「戸惑い」は「自分が思いもしないことを彼女が思っていたから」であると同時に「彼女がそんなことを思うと思っていなかったことを思っていたから」でもあった。彼女は普段はとてもこまやかに気を使う人だし、T・Bというダンスカンパニーの主要メンバーで「からだ」ではとても繊細で多様な「表現」をみせる人だったから。しかしそれとて、彼女がダンサーとして、あるいはおとなの社会人女性として「意識的に」訓練を重ね「あらわして」いたことを、私が「あらわれ」と捉えすぎて先入観を逞しくしていたゆえのギャップ(戸惑い)だったかもしれないし、よくわからない。「戸惑い」の感情を胸に宿したとき、私はどんな「表情」をしていたのだろう、と今になって思う。その顔も、ただ無表情と見えたのだろうか。彼女にどう見えたかよりも、私はそのときの自分の顔をみてみたかったと、私の目に私の顔はどうみえたのだろうかと、切実に思う。
有本利夫の絵画や船越桂の彫刻を見ていると、「表情」ということの奥深さを改めて感じる。そこにはいろんなものが存在している。しかしその「いろんなもの」は「名詞」とは相性が悪いらしく、そこにあらわれているものをなんと名づけてよいのか、一つにくくりきれない。思いつく限りの形容を、せーので同時に叫ぶことができたら、感じていることに近くなるのかな、と思ったりもしたのだが、そういうものでもないかもしれない。だから、考えてしまう。「表情」とは何なのかを。何を見て「表情」だと思っているかを。何を「あらあわす」ものなのか、あるいは「あらわせえる」のか。笑顔にしか見えない笑顔や泣いているとしか見えない涙が、一つのこと以外の全てを視界から隠す効力しか持っていないことに、改めて気がついてしまう。
私はレッスンの際に意図を持って「笑顔」になることがある。そこにはいろんな場合があるのだが、例えば「笑顔以外」の表情を向けられると緊張し、「怒られる」あるいは「拒絶されている」と思い込むクライアントに対しては、私の側から自発的に笑顔になる要素はなくても、相手への態度として「笑う」。「笑顔」になることは、物理的に筋肉を緩めないと出来ないので、私としては感情として「笑う」というより、心身的に「緩める」と行ったほうが正確かもしれない。自分の体の余分な思惑を除き、最小限の緊張状態(私だって初対面の人に対しては緊張する。しかし緊張に足をとられているようでは仕事にならないし、自分の判断力が信用できなくなるので、必要最小限を自覚する)で相手と向かい合ってみる。そうしているうちに、こちらからの笑顔に答えているうちにちょこっと筋肉が緩み、そこから少し気持ちもほぐれて、緊張の下に隠れていたものが現れやすくなるみたいなのだ。
本当はこちらからのナビゲーションや自分の肉体からの助けを待たなくても、「緊張の下の気持ち」を出したいと、クライアントも思っているようなのだ。しかしその「方法」がわからなくて、余計無表情に黙り込んでしまう。こういう「沈黙」や「無表情」は、語らないが、うるさいほどに「雄弁」だ。ただ、山のような要素を圧縮し、しかもそれぞれの要素が関連性を持てずにいるので、本人にも他人にも聞き取りづらい状態で存在している。だから他人の立場からは「何も言ってくれない」ように見えかもしれない。しかし本人には、そういう自分を見て黙り込む他人こそ「何も言ってくれない」と見えるかもしれない。砂嵐の中で叫び続けるような作業だ、と自分の仕事を思うこともあるが、たのしいこともあるし、何万回か同じことをいろんな角度から言っているうちに、クライアントにこちらの意図が言葉や行動に乗って届くこともある。立てなくなるくらい疲れるときもあるし、へこたれてしまうこともあるが、それが理由で仕事をやめるには絶望しきれない希望があるから、まだ私はこの仕事をしているのだろう。そういう時々に、私はどういう「表情」をしているのだろう、どういうふうに「みえる」んだろうと、思ったりする最近なのである。