えこひいき日記

2001年11月19日のえこひいき日記

2001.11.19

いよいよ寒くなってまいりました。私の仕事は主に屋内なので、寒風に吹きさらされるとかいうことはないのだが、このくらいの時期や、春の桜のころなどは、むしろ屋内の方が肌寒いときがある。ぽかぽかとお日様が照っていると、外の方が暖かかったりするのだ。しかし寒いのは嫌だー。悲観的になる。猫はホットカーペットの出現を喜んでいるようだが。

最近は1週間の飛び退り方がことに激しく、テレビをつけると「あれ?この番組、ついこの間も放送していなかったっけ?(実は一週間前)」などということが度々ある。夢を見る量も多くなり、時間がとめどなく長い帯状に感じられる。「気がついたらもう1週間の終わり」みたいな時間感覚のときにはよく、昨日の記憶も定かではなくなることがあるのだが、最近の場合はそういう感じではなく、結構覚えていたりするのでよけい「帯状」感が強い。今のところ、それで困る、とかいうことにはなっていないので、面白がっている範囲だが、情報量が多くて疲れるといえば疲れるかもしれない。それって、最近チョコレートとコーヒーを摂取する量が増えたことと何か関係があるのだろうか?(そういえば、時々動悸がするからやはりカフェインの影響はあるかも)などと考えたりもするが、それも定かではない。まあ、よいのだ。

食べ物の事を書いて思い出したが、最近『ポントルモの日記』(白水社)という本を読んだ。これは文字通り、ルネサンス後期・マニエリスムの画家ヤコボ・ダ・ポントルモの日記を翻訳・出版したものである。何でこの本の事を食べ物のことを書いて思い出したかというと、この日記にはほとんど食べ物のことしか書かれていないからだ。あと、健康状態のこと。朝、何を食べた、晩、何を食べた、食べ過ぎた、絶食、とか、そういう記述の合間に、どの絵のどの部分を仕上げたとか、誰と会った、という記述が短く登場する。日記の記述自体も短く、センテンスも短く、かつほとんどが「何を食べた」という記録なので、読み物としては退屈かもしれない。ほとんど「てゅらてゅらてゅらてゅらてゅらてゅりゃりゃー」というロシア民謡の「一週間」がずーっとリピートされているような日記なのである。

アーティストの書いた日記としては、武満徹の『サイレント・ガーデン』(最後の闘病日記である)や有本利夫の『もうひとつの空』など読んだことがある。出版の際に多少の修正?が入れられたところもあるのかもしれないが、これらは個人の日記でありながら読み物としてもとても面白い。何があった、だけではなく、それでどう思ったか、とか、どうしたいと思っている、とか、「記録」というより「一瞬先の未来の自分への手紙」のような感じで、読んでいて切なくなったり、新鮮な気分になったりして、ジーンときてしまうことも度々あった。

しかしポントルモの日記には、それ自体にかかれたメッセージは何もない。この違いはなんだ?どこからくるんだ?・・・ということを簡単に言い切ることは難しい。現代の作家と16世紀の画家という時代の差といえば、それもそうだろうが、それだけではないだろう。

私は、『ポントルモの日記』を読んでいて、クライアントとの会話を思い出してしまった。私はたいてい、通ってきているクライアントさんや2回目以降のレッスンのクライアントさんに「最近はいかがお過ごしでした?」に類する言葉を、開口一番かけることが多い。ただの挨拶といえば挨拶にもなるのだが、こちらとて「ただの挨拶」で聞いているだけではないことも確かで、そして返ってくる言葉も実に多彩なのである。ある人は、まるでスケジュール帳を読み上げる秘書のような口調で出来事を時系列で話し、ある人は時間の流れや登場人物は無視して印象的なことから話すし、ある人は不安や心配事だけを口にする。かと思えば、事情やディテールを一切説明せず「どうしたらいいですか」と聞いてくる人もいるし(ここから逆算して「質問の元ねた」をこちらから聞かねばならない)、「先生はどうですか?」という質問のカタチで入ってくる人もいる(しかし本質的に質問ではなく、自分がいいたいことをこちらに代弁させたいらしい)。表面的にはどう受け取れるにせよ、自分の「最近」をどうとらえているかはその人の「世界観」の反映だなぁ、と思ったりする。私個人はその人と同じ順番で物事を発想できないにせよ、その人がそのように考えるにはそれなりの法則やルールがあるわけで、それはその人の行動、体の動かし方、身体観ともつながっている。それは何が正しいとか、どれかだけが正解というものではなく、どれもが「ほんとうのこと」なのだ。ただ、それぞれの「リアリティ」の「つながり」が切れたときに、「世界」はとてつもなく生き難いものになる。私の仕事は「つながり」の回復、というよりも新たな「つながり方」を見出す手助けを、ほんの少しだけ、するのことである。

ポントルモの日記の記述を、ポントルモの目から見た世界と考えてみて、彼の描いた絵画を見てみると、何かがよく見えてくるような気がする。それは『迷宮としての世界』だ。(ちなみにこの素敵なタイトルはグスタフ・ルネ・ホッケの名著のタイトルである。マニエリスムを「時代」ではなく「スタイル」として捉えた本で、大学時代の私の愛読書だった)不可解で、謎としての「世界」である。生きていることの不安が、彼の日記であり、不安があっても絶望しきれない希望としての「世界」が、彼の絵画だったのかもしれない。芸術家で、自分を「不可解な世界の囚われ人」と感じた人は彼だけではない。例えば、広大な牢獄を描き続けたピラネージなども「この世の囚われ人」だろう。本当は誰しもそうかもしれない。ただ、彼らはそれを「表現する」手段をもち、「囚われ人」としての自己を受け止め、そのリアリティと生きることを選んだ「自由な囚人」と言えるかもしれない。それは、苦しみのない生き方ではないかもしれないが、不幸とも言い切れない気がする。

マニエリスム美術は通常「ルネサンスからバロックへの過渡期に現れた誇張の多い技巧的様式」と定義されている。しかし、その「装飾的技巧過多」は狙って作られたものではない。どちらかというと、そういうふうに「なっちゃった」ものなのである。マニエリスムの語源である「マニエラ」はイタリア語で「技法」を意味し、転じて「美の規範」を意味するようになる。ルネサンス期に完成された写実的遠近法により「世界を写し取る」術を得た絵画の世界で、ダ・ヴィンチやミケランジェロらの描く完璧な人体のディテールを「マニエラ」すなわち完璧な「美の規範」と定め、画家の卵たちにそれらを「書き取りドリル」のように模倣させ、さらに各人体部位で「マニエラ」と定めたものをコラージュして、より完璧な美を出現させようとしたものがそもそも「マニエリスム」だったという。しかしそこに出現したのは「優美なフランケンシュタイン」だった。パーツは完璧なのに、つなぎ合わせてみると「優美な化け物」になってしまう。皮肉といえば皮肉、失敗といえば失敗なのかもしれない。しかしそれは不思議な魅力となって人の心を捉えた。その、まとまりをみせない完璧なディテールのありようこそが、実はリアルに人の心に映る「世界」を写実していたのかもしれない。

「美」に憧れ、細部の完璧にこだわるあまりに、バランスとして「化け物」になってしまう有様に、私はどこかで「からだの使い方」の問題を重ねてみているのかもしれない。それと意図して「間違ったからだの使い方」をする人間はいない。少なくとも私はまだ会ったことがない。ひとつの熱意として、良かれと思って、行ったことの結果が、自分自身の心身を追い詰める・・・それはちょっと皮肉で、少しかなしいことかもしれけれども、愚かだと笑う気持ちには私はなれない。多分、私はどこかで、逸脱できる人間の熱意を愛しているのだと思う。言葉は悪いかもしれないけれど、化け物にも「なれる」、ということ、その「逸脱力」こそが人間のタフな創造性であり、才能であり、可能性でもあると私は思っている。そういう意味でアーティストやスポーツ選手や、あらゆるプロフェッショナルはみんな「化け物」だ。だからこそ、自分の「能力」(「逸脱力」というキャパシティー)とはいえ、「自分」を知らずに無茶苦茶に使うことは危険なのだ。「できる限りの無理をする」ことが努力ではない。する必要のない無理はしない、したい無理だけする、そのために「からだの使い方」などというおせっかいなものを教えているのだと、自分で思っている。

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