えこひいき日記

2001年11月28日のえこひいき日記

2001.11.28

自分の仕事については、いろんな方向からいろんな定義が可能だと思うのだけれど、その一つとして、私は自分の仕事を「プロの他人」であることだと思っている。「他人」というととても冷たく響くかもしれないが、けして「無関係な人」とか「無関心な人」という意味ではない。むしろ、「プロの他人」であるからこそ、家族も配偶者も友人も立ち入ったことがないほど本人の近くに居ることもある。友人や両親に話せることには、実は限界があるし、会話は立場を超えることが難しい。クライアントにとって「プロの他人」と接する時間というのは、相手や自分の「立場」「関係」からしか「自分が思っていること」を図り得ない日常の人間関係から一旦間をおいて、「自分が思っていること」「感じていること」を感じてみる時間である。それは本来「ひとりになって考える」という作業なのかもしれないが、物理的に部屋に一人きりになったところで「ひとり」になれるものではなく、かえって自分の中の「(最悪の」パターン」から抜け出せなくなったりすることもある。一人では「ひとり」になれないときに、ちょっとちからを借りてみる余地あり、なのが「プロの他人」なのかもしれない。

私が福岡に出張している間に届いていた郵便物の中に、この5月に亡くなったクライアントのご両親からのものがあった。中身はカセットテープで、音楽をやっている故人の妹さんとその親友が、彼女をしのんで作った曲が収録されていた。とてもいい曲で、いい声だった。

故人は北海道からレッスンに通ってきてくれていた若い女性で、筋肉が骨化するという身体障害があった。発症したのは中学卒業後だったというので、少しずつ動きにくくなる体に彼女がどんな思いを抱いて生きてきたのか、それは今でもわからない。ただ、レッスンを通して彼女とかかわった私が確かにいえることが在るとするなら、彼女の苦悩は圧倒的に「生きること」「生きるため」のそれであって、「病気」だから、ではなかった、ということだ。5月の「えこひいき日記」にも少し書いたことだが、彼女の圧倒的な生きることの「健康さ」はレッスンを教える立場の私に力をくれた。病気と闘うためにではなく、彼女が彼女らしく生きていきやすくなるために、「プロの他人」として彼女の生に関われたことを、私は本当に誇りに思っている。

彼女との最後のレッスンの際、彼女の体調がとてもよくないことは、私も彼女もわかっていた。わかっていたけれど、私は最後まで「生きること」しか考えていなかった。親族は新たな望みをかけて東京である治療を受けさせることを計画していたが、彼女はそれに対して戸惑いを見せていた。家族や友人の居る土地から離れること、新しい治療を開始することがこれまでの主治医や私への「裏切り」とまではいかなくても「距離」になるのではないかという思い、それと同時に新しい治療への興味と不安、せっかく家族が自分を思って進めてくれていることなのに…という気持ちなどの板ばさみになって、心身ともに戸惑っていた。最後のレッスンの際に彼女と珍しく長く話をした(彼女はあごの具合もあまりよくなかったのし、物静かな人だったので、たくさん会話をするということはあまりなかった)。その中で私は「したいようにしてよい。いろんな人への感謝の気持ちを、我慢や無理に変えなくていいよ」と言った。「東京に行ったとしても、京都に来れないってことじゃないし、私がそちらに行くことも出来るから」と言ったときに、彼女はやっとほっとしたように笑った。今でもその笑顔は私の脳裏で花咲いている。「したいようにしていい」。それが私と彼女にとっての「生きること」だった。彼女が亡くなったのはそれから10日後だった。ベッドの中で眠るようになくなっていたそうだ。彼女の携帯には出さなかった宛名のないメールが残っていて、そこには「私を救おうとしてくれたすべてのみなさん、ほんとうにありがとう。ゴウ(彼女の犬)をよろしく」とあったと、ご家族から教えていただいた。

テープに添えられたお手紙からはご家族のあふれるような愛情が感じられた。25歳の若さで、美しいまま、見事に生き抜いて亡くなった彼女の生は、かえってご家族を悲しくさせるものかもしれない。今もどこかで彼女がもっと生きていてくれたらと、望んでおられるのかもしれない。神様にも不可能だとわかっていても、愛する者に「ずっと」「このまま」側に居てほしいと望む気持ちを、誰が非難することが出来るだろう。でも、「プロの他人」である私には、不可能なことを夢見ることは許されない。だから「生きること」を考えた。最後まで「生きること」しか考えていなかった。

彼女の人生の時間のほんの少しを共有したに過ぎない私が、もしも彼女の人生にとって何者かであれたとするなら、それは私が唯一「なにもしてあげない」人間だったからだろう。段差を上るのも、横になるのも、座るのも、私は一切手伝って「あげな」かった。それどころか周囲の人間にも無条件に反射的に手伝うことを止めるように指示しすらした。何も「してあげない」代わりに、私は彼女の「そのまま」から何が出来るか、を引き受けた。できないことをできるようにがんばるのではなく、なにをしていることが「できない」ということなのかをみて、事実誤認があれば修正していくことを引き受けた。「家族」にできなくて、スキルを持った「他人」にできるのはそういうことだけである。病状のある人間にとって、「親身にならない」人間と出会う機会は意外と少ない。親身になってくれる人ばかりに囲まれるということは、時に重いことなのだ。自分が「じぶん」になる暇がないということでもあるのだ。だから「親身にならない」「他人」としての私とのレッスンが、単に彼女の手足の動きを解放しただけでなく、彼女が彼女らしく生きることにちょこっと貢献できたのだとすれば、「プロの他人」のとしてはとても嬉しい。

私は彼女が「亡くなった」ことではなく、「生きていた」ときのことを覚えていたいと思う。彼女が亡くなったときの悲しみではなく、彼女と出会えたことの喜びをたくさん思い出したいと思う。それが、彼女と出会って、今ここに生きている私の「生きること」だから。

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