えこひいき日記

2002年1月13日のえこひいき日記

2002.01.13

今年の仕事が始まって1週間がたった、最初の週末である。今週はレッスンが無茶苦茶忙しいというような込み具合ではなかったが、しかし休みはなく、毎日クライアントを見る日々であった。それと並行して、書き仕事を進めていたので、夜更かしの習慣はそのまま持ち越され、遅く(というか朝早く)まで起きていることもあって、とっても奇妙な感じである。不思議とあんまり疲れを感じない。そっちの負担よりも、やりたい気持ちの方が勝っている感じだ。まあ、ちょーしに乗り過ぎないようにしようと思う。

ところで初詣の際におみくじを引いたら、どの項目にも「春になったらよくなる」ということが書いてあって、笑った。要するに「今が忍耐のとき」で「春になったら努力は報われ」「春になったら長患いも治り」「旅行も春がよい」とあるのである。私は、朝のテレビの星占いを見てもその内容を覚えていられないし、その内容が(自覚的には)「大当たりじゃん」と思った経験もないし、雑誌の星占いなど目にとまれば見ちゃうくらいには興味があるが、あまりこだわらないほうだと思う。けれども、そのおみくじはちょっといい気分ではあった。自覚が足りんだけかもしれないが、このくらいのことが「忍耐」ならうれしいし、「春になったらよくなる」(確かに今抱えている仕事は春あたりにめどがつくだろうから)というのは、なんか明るくてよい。

私の友人の中には、何か決断ごとや困り事があると「必ずいく」というおかかえの(?)占い師さんと親の代からお付き合いしている人もいるし、いわゆる「辻占さん」をはしごするのが趣味、という人もいる。私自身はそういう行動はしないのだけれども、なぜそうしようと思うかは、何となくわかる気はする。占いや占い師さんとの関わり方は、最終的にはあらゆる「コンサルタント」「カウンセラー」「相談窓口」とのかかわり方と同じだと、私は思っている。彼らが助けてくれるのではない。自分が自分の人生に向かい合うのを少し助けていただくだけで、当事者はあくまでも「自分」だ。自分の気持ちをクリアにするための、一つの手段が「占い」なのだろう。そういえば、以前占い師をしているクライアントさんが「最近は見当違いなお客さんが増えているようで困る」と言っていたな。彼女いわく、「見当違いなお客さん」は、自分で自分の問題に向かい合う気持ちがなく、ただ「方法」だけを聞いてくるのだという。「幸せになる方法」とか「お金が儲かる方法」とか、ネタはさまざまだが、押し問答の末、追い返すこともあるという。私にも似たようなクライアントに会った経験があるから笑ってしまうのだが、そういう「方法」が本当にあると思っていること自体がとんだ「迷信」だと思うのだけどなー。私の仕事の範疇からいえば、クライアントが「幸せになるために」これまで「どのような行動」をして、それの「どこに」「どのように」満足できない感覚を覚えているのかを知らなければ、「どうすれば」なんて何も言いようがない。私の経験上、多くの場合彼らは「幸せになりたい」のではなくて「不幸が怖い」だけで、その「不幸」というのも具体的な何かというよりも、「それが発生する確立はゼロには出来ないが、今すぐ起こりそうにない」ものに対する「厳戒態勢」だったりする。気持ちはわかるけれども、「不幸」に身構えて生きていてもしょうがないし、同時に「どう生きたいか」を具体化した方が「不幸」も減る。それは、すごく大きい言い方になるけれど、本人に「生きる意志」があるかどうかの問題だ。でも「自分の生きる意志」なんてなくても生きてはいけるから、しょうがないのだけれども。

そういえば、今まで「占い」で腹が立ったことが2回ばかりあった。

あるクライアントで治療師をしている人は、自分で占いを習い、患者の治療に迷うと患者のことを「占って」くるのだ。患者がそう頼んだのなら問題はないし、治療師が「占い」の内容を己の胸にとどめて「自分の判断」を問い直す機会にするというなら、まあよいと思う。「占い」も一つの「統計学」「傾向分析」だから。しかし彼の「占い」の「使い方」は、いわば「だって占いでそういってたんだもん。あなた(患者)の言うことよりこっちの方が正しいはずだもん」という態度なのだ。(せめて「相手のこと」ではなくて「自分の子と」を占えばいいのに。「患者の治療」に「迷っている」のは「患者」ではなく、彼自身なんだから。)まがいなりも、「治療」に携わる人間が、「頼まれもしないのに相手に対してその技術を行使する」ことの危険性を認識していないのには、ちょっとあきれる。私の仕事でいえば、私が道行く人を捕まえて「あなた、からだの使い方が最悪ですね」とか言って、無理やりこっちのやり方を押し付ける、というのと同じことなのだから。それは「プロ」のやることではない。ただの「エゴ」であり「暴力」だ。患者を「手助け」したいのではなく、「支配」したいだけだ。そして彼は喜々として私の運勢も勝手に占って、紙に書いてもってきた。本人は「親切」のつもりなのだ。私は(当然)中を見ずに破り捨てた。このクライアントは今でも時々なんだかんだ問い合わせをしてきたりするが、出来れば二度と会いたくない。多分、それが私に唯一示せる彼への積極的な「回答」だ。

あと、もうひとつは「スタジオK」主催のクライアント同士の交流会の席で、タロット占いをし始めたクライアントに対してだ。一見なんでもない風景だが、彼もまた、ひとを「支配」するために「占い」を使ってしまうのだ。そこで出来た人間の関係性を自分の力だと勘違いしてしまう。たいていこのような場合、「占う者」より「占われる者」の方が「だいじょうぶな人」なので、「占われる人たち」はそんなに心配はないが、「占う人間」はこのように「占い」を使えば使うほど無事ではすまない。この人も一応私のクライアントだし、私に出来る対応は、交流会の開催を止めることだった。(ああややこしい)交流会を最近開かなくなったのは私の時間的な問題もあるのだが、このことがきっかけになったことは確かだ。残念な面もあるが、こういう会でないと交流がもてないというものでもないし、私はやはりどっちかというと、「個」として人に向かい合うことを大切にしたいと思う。

ほんと、「もの」は「つかいよう」だと思うのですよ。「もの」自体の良し悪しもあるけれど、それ以上に「その用い方」が大きい。

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