えこひいき日記
2002年2月8日のえこひいき日記
2002.02.08
節分を過ぎ、立春を過ぎて、寒い中にも春に向かう気配のようなものを確実に感じる。そうした季節の変化に植物はいち早く反応するようで、室内の観葉植物はにょきにょきと新芽を出し、新しい葉を茂らせてきている。そういうのを見るのって、楽しい。
「植物」といえば、この生き物に対してどのような生命感を抱くかは文化によってさまざまみたいだ。
「ベジ・アウト(vege outでいいのかな?)」という言葉を最初に聞いたのは、多分ニューヨークにいた頃だが、とっさにキャベツとか白菜などの青い野菜が頭の中いっぱいになってしまって「は?」と思ったものだった。この言葉は、もう疲れちゃってぐったり、という様子を形容する言葉としてよく使われる。私はとっさに青々した新鮮野菜を思い浮かべちゃっただけに、その意味するところのギャップに戸惑ったが、これは文化による「植物観」の違いといえるものかと思ったりした。例えば「植物人間」という言葉がある。英語では「vegetable」という。野菜や植物を示す言葉にも同じく使われる言葉だ。「植物人間(状態)」とは、意識がなく、自分の意図で自分の身体を動かすことが出来ない状況の人間をそう呼ぶ。「植物人間状態」という言葉を聞いたときに、あなたはどんな気持ちになるだろうか。人間としてけして幸福ではなく、むしろ絶望的な、死に近い状態としてこの言葉の意味をキャッチすることが多いような気がするのだが、どうなんだろう。しかし「意味」としてではなく、「言葉」として「植物・人間」を考えてみると、そんなに不幸でもない状態が思い浮かんできてしまうのは、私だけなんだろうか。青々、すくすく、という「静かな健やかさ」を私は「植物」に感じてしまう。そのような植物のように生きていけるなら、人間はけっこう幸福、という気がしてしまう。これは「死」ではなく、とても確かな「生」のイメージだ。むろん、これは「植物・人間」というそれぞれの言葉のイメージからの発想であって、「植物人間」について言っているのではない。ただ、「植物」という言葉に託す意味がこれほどまでに違うのは、そこに何を見ているからだろう、と考えたりするのだ。
奇しくも今月号の『ダ・ヴィンチ』(メディアファクトリー)という本の雑誌の中に、先日やっと発売になった『サイケデリックスと文化』にて私が名前を並べさせていただいている加藤清さんと、田口ランディさんとの対談が掲載されていたのだが、その中に「樹に助けられる」という話が出てくる。詳しくは、お手にとって読んでいただいたほうが早いと思うが、「樹木は非常に落ち着いた世界を持っている。人間の感情は浮き沈みが激しいでしょう。だから、樹木に触れると、鏡に映したように、自分の浮き沈みをより強く感じるんやと思う(加藤)」という言葉は、言語を解読できるというリアリティ以上のリアリティをもって、よくわかる気がする。以前この『えこひいき日記』にも書いたが、私は植物(できたら切花や花のある植物ではなく、観葉植物みたいなの)のないところで仕事をするのが苦痛なんである。ベースにしている京都の事務所には植物が絶えないが、仕事でそこを離れ、ホテル住まいをしながら仕事をしていたりすると、なんだか自分のからだの中に放出されきれない熱がこもっているような、へーんな感じになることがある。以前、東京で仕事をしていたときは堪らなくなって、そこのスタッフさんに「あの、自腹で購入しますんで植物買ってきていいですか」とわがままを言って植物を持ち込んだりした。そのスタジオには仕事をする上で足りないものなどなく、ばっちり「用は足りている」のだが、それだけでは消化というか代謝がうまく回っていないような、そんな感じになってしまったのだ。私が私であるために、私は植物にずいぶん助けてもらっている。あるいは「植物」なる生命感に、というべきか。