えこひいき日記

2002年5月7日のえこひいき日記

2002.05.07

「住み分け」ということについて考える。
例えば、サバンナやジャングルの動物たち、あるいはテレビ番組の「○るる○滞在記」で紹介されるような集落に住む人々にとって、自分が「みたことのあるもの」よりも「みたことのないもの」の方がはるかに多いと思うのだ。サバンナに住む動物たちは、自分たちが人間から「動物」というカテゴリーで呼ばれていることも、自分たちのほかにも多くの「動物」の種類が在ることも知らず、一生の中で出会う「動物」たちも限られていると思う。私の友人はオランダ系アメリカ人の女性と結婚したが、ニューヨーク州の北部に住む彼女の両親は、娘が私の友人の日本人男性と結婚するまでチャイニーズ料理すら口にすることがなかったという。アメリカには中国系の移民も多く、チャイナタウンもあるし、「アメリカン・チャイニーズ」と呼ばれるアメリカ風に味付けされた中国本土にはない中国料理もあるほどだが、だからといって誰しもにとって異国料理がポピュラーなわけではなく、アメリカの中には自分の州から出ずに一生を送る人も珍しくない。日本人の目から見ると、ニューヨークというといわゆるマンハッタンの摩天楼やさまざまな人種が行き交うブロードウェイ界隈の風景を思い浮かべるかもしれないが、ニューヨーク州自体は牧場も多い田舎であったりする。
こうした生活は、ある種博物的な情報が流通する日本での生活では考えられないほど情報が限られているといえるが、それがすなわち「不幸」や「無知」であるとはいえないだろう。むしろ、「知ってはいる」けれど「みたことがない(自身で体験したことがない)」ことが多く、情報として知っているだけのことを「みたこと」のように勘違いしてしまう生活の方がずっと不便な面があるかもしれない。日々「からだの使い方」などというものを教えていると、自分の「みたことがあるもの」「みたことがないもの」「知っているもの」「知らないもの」などの関係と価値付けが大いに混乱していて、知っているのに「使えない」状態になっていることが「常態」になっている人を山ほど見る。そのような混乱にあっても生きていける人間の逞しさに感心しつつ、ちょっと動線を整理するだけでときには飛躍的に状況が回復したり、気分的にも解放されたりするということに、はたまた「日常ってなんやろ」と思う次第なのである。

それでなんで「住み分け」という話になるかというと、都市部で生活していると、サバンナよりもずっと人口密度が高いわけで、見たくても見たくなくても目に入るものがあるわけで、それに対して「いいぐあいに放っておく」「関わらない、という関わり方」を身に付けることは、結構切実だな、と思ったからである。実際のところ、どういう言語をあてがうのが最もふさわしいのかわからないのだが、自分のプライバシーを他人を排斥することでしか守れないのではなく、自分と他者が共存していく方法とは何かな、ということなのである。
私のクライアントの中にも、自分が「目撃」した他人の行動を「自分への態度」と自動的に解釈しすぎてしまって、苦しくなってしまったり、他者を批判したり突き放したりする方法でしか自分のプライバシーを守る方法がわからなくなってしまっている人がいたり、あるいは自分を保持するために他人を気にしすぎてへとへとになってしまうひとがいるが、どのくらい自分の中で「困っているか」に違いがあるにせよ、他者と関わって暮らすというのはパワーが要ることだと思う。しかし他者に関わらず都市生活をするというのは、ほとんど不可能だ。都市において自分を維持することは他者と関わることと直結している。そういう彼らの相談に乗れるのは、私は「他者」だからだ。「関わらない、という関わり方」や「他者」という言葉の響きは、冷たく聞こえるかもしれないが、当事者ではないからこそ立場を超えて考えることを助けることもできる。そして何より、クライアントは状況を改善する意思を持っている。
しかしレッスン場の外の世界は、やはりワイルドだ。「手助け」する関係に距離感のない人もいる。ある管理職にある人は、持ちかけられた相談が自分には不可能なことであっても「できない」ということができず、しかし結局できないので、誰に対しても言い訳じみたことしか言わないので信用を失ってしまったりした。そのくせ自分が感じる「迷惑」には敏感で、それをほとんど「嫌がらせ」や「攻撃」のようにとらえ、過激な反応をするので、これまた困るのだ。けして悪気ではないのだろうが、少々救いがたいものがある。クライアントには関わる責任を持つが、こういう人間とはできるだけ関わらずに生きれるものなら生きていきたい。
以前、コンビニで店員さんが私につり銭を渡すときに、ほとんど投げるようにして渡してきたのでつり銭が散らばってしまったことがあったが、彼は一度も私と視線を合わせず、その間も口からはマニュアルどおりの接客言葉が漏れ続けていた。そういう彼の態度を「機械的」と表するのは簡単だが、彼が「機械」なのではなく、やってきてはただ物を買っていくだけの私も顔のないただの「客」である私も「マシーン」に見えるんだろう。そういうかたちで「関わり」を排除することもまた、都会生活の中で自分を保持するためのサバイバル術なのかもしれない。ただ、そんな方法でしか自分を守れないのは、やっぱり淋しいと思うし、私的にそういう店員はやはりむかつく。おそらく、悪意ではないんだろうな、とは思っても。

話はちょっと変わるが、子供の頃「一年生になったら、一年生になったら、友達100人できるかな」という歌を「のろいじゃ」と思ったことがある。当時のクラスは1クラス40数人で、幼稚園から小学校に入ったところでただでさえどきどきしているのに、「友達100人」などと言われるのは「強迫」以外の何者にも思えなかった。クラスの人と全員と「友達」になるのも大変だろうに、他のクラスの人全員と、もう一つのクラスの人とも仲良くならないと、100人じゃないじゃん!と思ってくらーくなったのだが、もちろんこの歌はそのような現実的な要求の歌ではなく、きわめて形容詞的な「100人(「たくさん」の意ね)」だったのだった。
けれども、やはりこの歌には一種の「呪」がかけられていると思う。「できるだけ多くの人と仲良くならなくてはならない」という「呪い」だ。「仲良く」の意味を画一的にとらえてしまったとき、呪いは発動されるような気がする。できるだけ近寄ることだけが「仲良し」のスタイルではないし、「たくさん」だけが「善」ではない。「たくさん」を目標にするなら、自分は「友達マシーン」になるしかないだろう。人間だから、個に対応できるし、好き嫌いもあるのだ。少しだけ、上記の管理職やコンビニ店員の態度の裏にも「仲良くしなくては、の呪い」の存在を感じたりするのだ。他者と関わることと、自己保持の攻防。

ともあれ、自分の生き方にちょっとはポリシーを持つべきだな、と思った次第である。

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