えこひいき日記

2002年5月20日のえこひいき日記

2002.05.20

もうすぐ日韓を舞台にしたワールドカップが開幕となる。一昔前くらいだったら、アジア圏でワールドカップ開催、なんて考えられないことだったように思う。そしてちょうどその時期、私はサッカーが面白くて、ブラジルやイタリアで開催されていたワールドカップの中継をみていた。ちょうどマラドーナが現役出場していた最後の試合のあたりである。

おおよそ私は「スポーツ」というものに興味がない。おおよそ筋肉と汗と息苦しい「がんばり」だけで行う行為には、なんであろうと一切興味がないのだ。だが、サッカーを見て「おもしろい」と思えたのは、そこに「音楽」を感じたからだと思う。よく「ヨーロッパ・サッカー」とか「ブラジル・サッカー」、「南米型」「欧米型」というように、プレーのスタイルにその国、そのチーム独特の個性の存在を示唆する言い方をされるが、最初にフランスとアルゼンチン(だったかな?)の試合を見たときに、違う音楽が同時に演奏されて奇妙にマッチした輪唱を耳にしてしまったかのような、ふしぎな感触を覚えた。もちろん実際にはテレビ画面で試合を見ただけだから「耳にした」のではなく、「目にした」のであるが、感覚的に私が体験していたのは「音楽」だった。
試合は、楽譜のない演奏だ。だから、いつチャンスがめぐってきて、どのようなパスに、どのようなゴールに結びつくかは、ただ身構えているだけでは奏でようがない。しかし(結果的に)「チャンスを生かしてゴールに結びついた」プレーは、伏流水のような必然的な流れがある。それは「スポーツ」というものにたいしてどしろうとな私にもきちんと「きこえた」。もちろん、それは一流選手たちがよどみなく奏でる(プレイする)ものだからこそ、私の「みみ」にもはっきり「きこえた」のかもしれないが。
日本にJリーグが発足したのは、私が渡米して2年目の頃だったか。申し訳ないが、私はJリーグには興味を抱くことができなかった。そこには「音楽」がなかった。途切れ途切れの「いい音」「いいフレーズ」は聞こえてくるのだが、90分を通して聞こえてくる「メロディー」を私は聞き取ることが出来なかった。
その時点で私は急速にサッカーに対する興味を失い、ニューヨークに居たときに開催されたアメリカ大会などは、観もしなかった。前回のワールドカップも同様で、どこが優勝したのかも記憶にない。

しかし今回のワールドカップ開催にちなみ、各国の「ワールドカップへの歩み」などを紹介する番組を見ていたときに、ある南米の選手が興味深いことを言っていた。「サッカーは、創造に満ち溢れたものであり、生きる喜びである。しかし○○の国の考え方では、サッカーは単なる身体運動である。その影響を受けてわが国のサッカーにあった独創性や想像力は失われ、筋肉トレーニングや体を鍛えることの方が重視されるようになってしまった」
それを聞いて、私が感じたサッカーの中の「音楽」は、あながち錯覚でもなかったのではないかと、思った次第である。それと同時に、「サッカー」を「なんだ」と思ってプレイするかによって、そこに存在する「音楽」が違ってしまうのは、むしろ当然のことなんだろうな、と思った。
「からだ」が「筋肉の塊」であるかのように、物理的に捉えられるようになった歴史は意外と浅い。浅いが、近い歴史ほど「あたりまえ」な顔をしてまかり通ることがある。あるダンサー(男性)も、技術を習得すること、からだを鍛えることに夢中で、ダンスがひとつの「言語」だとは考えても見なかった・・・と先日レッスンの中で言っていたが、ある行為が技術的難易度をあげていく「遊び」になることは、とても容易い。「遊び」は遊びでたのしいならよいと、私は思う。しかし「単語を発音できる」ことが「しゃべれる」ことではないように、「音符どおりに音が出せる」ことが「奏でる」ことではないように、「ポーズやステップができる」ことが「踊る」ことではないように、その技術を用いる意味がその人の中に存在しなければ、その動作にその人の「必然」の流れがなければ、それが「表現」になることは、とても難しいと思う。

結局のところ、「スポーツ」にしろ「芸術」にしろ、「人間のする行為」に対して「人間」が線引きしたカテゴリーにすぎない。ちょっとこの際、ワールドカップは見てみようかな、と思った次第である。

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