えこひいき日記

2002年7月12日のえこひいき日記

2002.07.12

台風のやってきた10日は、京都では祇園祭の「鉾たて」が行われる日で、雨の中どうするのかしら・・と思っていたが無事に執り行われたらしい。巡行は17日。その前日は「宵山」、そのまた前日は「宵々山」と呼ばれ、そのまた前日が日曜日でもあるから「宵宵宵山」あたりから、ここら「鉾町(ほこちょう)」と呼ばれる鉾の建ち並ぶ界隈は夕刻からすごくなるだろう。それに合わせてクライアントの予約を調整しなくてはならない。

今の事務所のあるあたりは「鉾町」でもあるが、デパートなんかもある繁華街である。おかげで買い物はすごくらくだ。ちょっと足りないものが出来てもとりあえずデパート方面に行けば手にはいるし、そのデパートも年々営業時間が長くなっているので助かる。現在の私のデパート依存率は高いと思う。デパートの近くにいつもコーヒー豆を買うコーヒー豆屋さんがあったり、錦市場があったりするので、純粋にデパートだけで買い物をしているのでもないが、時間があるときはエレベーターで最上階に行きエスカレータで下りながら各階を見るのが好きだ。
子供の頃、デパートは「およそゆき」を着て「お出かけ」する場所だった。デパートはとても遠くにあるもののように感じていたが、そう考えると今とのギャップはすごいものがある。子供の頃、デパートに感じていたさまざまなギモン(例えば、「どうして最上階では「生きている生き物」を売っていて、地下では「死んだ生き物」を売っているのか、とか)があったが、今でも謎は多い。そしてその謎は楽しいのである。例えば「大食堂」。周囲にお蕎麦屋さん、中華料理店、イタリアンなど、「専門」のお店があるのに対し、「大食堂」のメニューは百科事典並みのサイケデリックさである。ほんとになんでもある。多分、家族ずれでデパートに来た場合、子供や大人、お年寄りなどのさまざまなニーズにこたえながら一緒に食事が出来るように、こういうメニューになったんだろうが、では家族とはサイケデリックなものなのか?などと考え始めると止まらなくなる。
最も近所にある「○丸デパート」の場合、屋上階には食堂街とペットショップと園芸用品などがある。「高○屋デパート」の場合、屋上はやや閑散としていてこころなしかペットショップの店員の対応もそれ風なのだが、「○丸」の場合は結構賑やかだ。初夏の、まだ日差しがやわらかめの薔薇の花盛りの日など、屋上のベンチでお弁当をひろげてお花見をしている人もいる。ペットショップではうちの猫のご飯を買い、籠に入れられたさまざまな鳥たちを眺めるともなく長め、エスカレータに乗って階下に移動する。デパートという建物内で美術展が開催されているのもなんだか好きだ。最近「○丸」ではミュージアムの周囲にかわいいアーティスティックなデザインの雑貨や文房具のコーナーを作ったので、時間があれば必ず見る。ディスプレイがしょっちゅう変わるのも面白い。食器のコーナーを見るのも好きだ。あまり買わないが、どの皿にどんな料理を入れるといいかな、とか、花器に使えそうな食器とか、ぼんやり見るともなく見るのが好きである。お洋服は、あまり見ない。服に関しては、もうそれを買うために足を運ぶか、さもなくば見たとたん欲しくなる、いわゆる衝動買いかのどちらかで、「見るともなく見る」というような見方はしない。アクセサリーも同じだ。
地下の食料品売り場も好きだ。錦もそうなのだが、私がデパ地下や錦市場の雰囲気が好きなのは「呼び声」がごく控えめか、ほとんどないからかもしれない。私は子供の頃、近所の市場の魚屋のおじさんの売り声が怖くてうるさくて「うるさい」と言ってしまったことがある。おじさんはすごくすなおに「あ、ごめんね」と言ってくれて、それでほっとしたような、申し訳ないような気持になったのだが、私は個人的に至近距離での売り声が苦手なのである。だから狭くて忙しいラーメン屋なども基本的に怖い。どやされながらご飯を食べているような気分になる。デパートの地下食料品売り場は夕方くらいからセールをするので、そのくらいに行くのがよい。が、その頃にはお腹も減っていて、しかもセールになっているのでついいろいろ買ってしまいそうになるという難点もある。

こうした考えると、私にとってデパート行きは日常的な行動でありながらも、買い物以外の要素もたくさんある行動なのかもしれない。そういえば私は書き物に行き詰まると近所のお店をふらふらしたりすることがあり、基本的に考え事モードなので、目も前に知り合いが居ても気が付かないこともままある。東京でのインテリア・ショップ周りよりは小規模だが、「考え事」をするために歩いているのかもしれない。

そういえば昨日、クライアントの一人とレッスンの中で「様式」の話をしていた。インテリアにはその人の精神状態が現れることがあるのだが、そのクライアントは非常に繊細な感受性を持っているのだが、調子を崩すとその鋭敏さがしんどい方向に働いてしまい、体調も崩れるし、部屋が片付けられなくなったりする。部屋が片付けられないのは、それでいいと思っているからではなく、どういうふうにすることが自分にとって居心地がよいことなのか、見失ってしまうからである。だから、気持ちはあるのに具体的な行動に出れず、それで二重に苦しくなり、混乱を強めてしまう。「からだ」を通して自分にとって望ましい状況をそのような具体的な行動によって作り出せるかを考えるのも重要だが、そうして得られた「体感」がどのように生活や表現に反映されるのかを話すこともときに重要なことである。彼女(クライアント)とは「落ち着く部屋の感じって、どんな感じなのか」について話してきたことがあったが、かつて彼女は決まってミニマリスティックなインテリアを指定してきた。真っ白な壁、真っ白な家具、真っ白なリネン。生活を感じされるような小物が一切表に出ていないような、そんな空間だ。「生活の用具は、どこにあると思う?」という質問に、かつて彼女は「・・・かばんの中、かなあ」と答えていた。隠れた収納があると思えない、生活に必要なものはかばんに入る分だけで、それ以外はない、と。彼女はよく大きなかばんを持ち歩いていた。どこに行くにも、まるでお泊りをしに行くようないでたちだった。それはそのまま彼女の「居場所の見つからなさ」を反映したものだったのだろう。
彼女は「様式」が理解できない状態だった。「様式」に似たものを作り出そうとすると、何もかもを「統一」してしまうのだ。そういう方法しか思いつけないで居た。だが、最近少しずつ変化してきた。ミニマリスティックな部屋とある意味で対照的だが、博物的な部屋、というのがある。渋澤龍彦邸やココ・シャネルの居室にそういう感じを私は抱く。その部屋の中にあるものは一気にそろえられたものではなく、一つ一つ、徐々に、ばらばらな時間に集まってきたものたちなのだが、だからといって「ばらばら」な感じはしない。それで一つの空気を作っている。その空気感、それが多分「生活様式」というものなのだろう。「もの(物体)」ではなく、その「関係」を感じ取れなければ、「様式」は生み出せない。彼女はどちらかというと、激しく「もの」に注目してしまう方なのだった。「もの」と「もの」との「関係」が読めないから、配置が出来ない。片付けられないのである。(ちなみに彼女は文章を書くのも極端に苦手だ。「単語」は書けるが、それを「文章」にすることがなかなかできない。彼女の選ぶ「単語」自体は非常に的確なのに。)
「もの」は目に見える。しかし「関係」は、目には映りはしているが、それは「もの」を通してであってそれ自体が可視化されているわけではない。そのへんがややこしいが、それがみえないと、やっぱりしんどいかもな、と思うのである。

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