えこひいき日記
2002年8月29日のえこひいき日記
2002.08.29
睡蓮鉢を入れているベランダの簡易池(?)の中には、めだかが2匹いる。もともと10匹1セットという状態で買ってきたのだったが、最終的に残ったのはこの2匹。もう1年以上元気でいてくれ、うち1匹はけっこう巨大化していっているのだが、どうやらこの2匹は「つがい」であったらしい。簡易池の中にめだかの稚魚がいるのをみつけてしまった。
よくあることなのだが、お魚の卵はその親に食べられてしまうことがある。だから卵が孵化しても、それが生長する確立はそれほど高くないのだが、今のところ次々と生まれた稚魚たちは、結構元気だ。うち1匹はだいぶ大きくなって、たぶん、親の口のサイズよりも大きくなっているみたいだから、だいじょうぶだろうか。簡易池の中には睡蓮のほかに、シラペスというパピルスの一種の鉢も入れてあるのだが、この植物の細い茎の間がちょうど稚魚たちの隠れ家になっているようでもある。このまま元気で育ってくれるといいなあ。
魚たちにも産卵が出来る条件や、稚魚が育つことの出来る環境や条件があって、やたら産んじゃう、生まれたから育つ、というような自動的なものではないことがわかる。だって、ガラス製の水槽に入っていたときはめだかたちは一度も産卵をしなかった。(だから、偶然に生き残ったこの2匹がオスとメスであったことも、まったく気がつかなかった)おそらく、ガラス製の水槽では水温の変動が今よりありすぎたからだろう。「産卵」などという「体調」にならなかったのかもしれない。あるいは、産んでいたけれど育たなかったり、食べられてしまっていたのかもしれないけれど。
ともあれ、「育つ」って、たいへんなんだなあ、すごいなあ、などと改めて思うのである。
そう考えると、人間の方が結構「野蛮」でむりやりなやり方で産んだり増えたりしている部分があるような気がする。俗に「(母)親」が「子」に対して持つとされる「母性本能」も、実は「本能」などではなく、経験であり、教育(「思い込み」、「思い込まされ」、「義務感」というものも含めて)である部分がずっと大きい。持ったことのない感情、やったことのない行動は、出来ないことである方がむしろ自然だ。小児虐待のニュースなどを見るたびに思ってしまう。虐待する方は、自分がライブで「子」であって楽しかったことなど、あんまりなかったんだろうなあ、とか。「支配」や「管理」を受けたことはあっても、育まれる、というのとは違う体験だったのかなあ、とか。私の子供時代とて、全てがすばらしい思い出で埋め尽くされているわけではない。多分、多くの人がそうだろう。しかしほんのひとひら、自分がこの人間の子供に生まれたことを許容できる思い出があれば、生きていけるような気がしている。別に虐待をする人を擁護する気持ちはないが、そういうかたちでしかコミュニケーションを思いつけないような経験をつんできている人たちもいる、ということは思ったりするのだ。
ある程度の年齢になったら結婚する、子供を持つ。就職して、仕事をする。それは社会的に伝統的な「契約」ではあっても、人間が成育できる環境ではないこともある。もちろん、激しく離反するケースばかりではなく、人間としてのすてきな生育環境と「家族」とか「夫婦」というスタイルが相成り立っていることだってたくさんある。けれども、やはりそれは自動的なものではない。結婚したから大丈夫、子供を産んだから一人前、などという自動的なものではない。
「そういうものだ」と思って結婚し、子供もいるけれど、人間としてにっちもさっちもいかない人たちはやはりたくさんいる。でも結婚して子供を持っちゃえば、にっちもさっちもいっていないことはおいそれとばれずに済んだりはするので、そのことが本人に「かろうじて」の安定をもたらしていたりすることもある。私のクライアントの中にも「どうしてこの人が人の親なんだろう」と思えるような人がいるが、その人が「かろうじて」家庭内暴力に至らずに済んだり、子供を殺したり、自分が死なずにいるのは、その人が悩みの対象がそのに在るからであったりする。だから、家族とか、婚姻関係を解体すること、あるいは他者との関係を拒絶することだけが、その個人が自由になって生きやすくなる方法というわけでもない。
自動的じゃない、といったのはそういう意味だ。生きていくために育たなくてはならない。
ただ、人間ってすごいな、と思うのは、人間は自分で自分を育てることができる、ということだ。人は年齢的な意味での子供時代だけで成長が止まるわけではない。50歳になっても、60歳になっても、80歳になっても、本人が気がついたときが一番のチャンスなんだなあ、と思ったりする。それはクライアントさんから教えてもらったことだ。
やっぱり「育つ」ってすごいことだなあ、と思うのである。