えこひいき日記

2002年9月13日のえこひいき日記

2002.09.13

13日の金曜日である。今年に入ってからは初めてじゃないかな。
おりしも『ジェイソンX』という、宇宙空間でよみがえったジェイソン君が人を殺しまくるという映画が封切りになるらしいが、数ある「不死身の殺人マシーンが人を殺しまくる」という映画の中でも、ジェイソン君の存在は格別のように思う。例えば『ターミネーター』とか『エイリアン』など、「なかなか死んでくれないやつがどんどん追っかけてくる」映画は他にもあるのだが、いずれも相手は人間じゃない。『エイリアン』はバイオメカノイドという別の生物で自らの種族の繁栄のために人を殺すし、『ターミナーター』は高性能の機械で、その行為には思想的(?)背景があるから、「殺人の理由」がわかりやすい。しかしジェイソン君に関しては、なんだかよくわからないのである。なんだかわからにけれど、疲れ知らずに殺しまくる。こういう化け物にターゲットにされるのは心底怖いと思う。しかし同時に、映画を見る側としてジェイソン君の一連の行為を見ていると、ものすごくばかばかしくなってきて、笑ってしまいそうにすらなる。以前『パルプ・フィクション』という映画を見たときに、最初はあまりにお下品なスラング・トークや軽軽しい凶行の数々にぼーぜんとしていたが、30分も経つと、実に軽軽しく人が殺されていくシーンに笑いが起きるようになってきてしまった。自分の中に何が起こるからこういう気持ちに移り変わるのか、ふしぎでもあるが、ともあれ、『13日の金曜日』にも同じような「ばかばか・おそろしい」という、「自分の日常にないからこそ楽しめる」エンターテイメント性があるように思う。もしもあの状況が自分の「日常」にやってきたら、間違いなくほぼ全員「殺される側」だから、笑っている場合ではないぞ。

「リアリティ」とか、「表現」などという話を別にして、「エンターテイメント」として考えれば、バカで大げさな役ほど演じていて楽しいものはないかもしれない。お昼に放送されているテレビの30分ドラマや「○○サスペンス」などを観ていると、そう思う。あのテンポで次々と事件やら苦難やらが押し寄せてきたら、現実の人間はとっくに心身症になって何年も引きずってしまうであろう。しかしそこを倒れもせず、弱音も吐かず、トラウマにもならず、明るく元気に苦難に立ち向かってしまう主人公や、一つの恨みに長々固執し続けることのできる犯人役は、ともに立派な「ターミネーター」である。
しかし舞台やテレビの中では、まともに良心的な役柄よりも、「なんやおまえ」みたいな役の方が演じていて楽しいだろうし、観ている側もあくまで「観ている」立場として(けして誰かの立場に置き換えたりせず)無責任に楽しいような気がする。そういう人生を実際に生きるのは嫌だが、演じるのは楽しいだろうな。ジェイソン君はさすがに演じにくそうだが、男に捨てられてぼろぼろになっても追いすがる女の役とか、敵をじわじわ追い詰めて復讐していく暗い情熱に燃えた復讐者とか、結構楽しそうである。

すべてのことにおいて人は当事者であれるわけではないし、全てのことから無関係でいられるわけでもない。当事者として対処すべきことと、他者として対処すべきことの、みわけやバランスが取れなくなったときに、正反対の立場に逃げることが救いになるように錯覚しがちだが、それは反動に過ぎないことだ。
「無責任」のよいところは、誰の見方でも敵でもない立場から状況を把握できるところである。いきなり当事者ではなかなかそれは出来ない。でも「無責任な」立場から見えたことが、自分が当事者になったときにそのあり方を変えることがある。だからたまに「無責任」な立場からなにが見えるのか、見てみるのも面白いかもしれない。「プレイ・セラピー」などという演劇療法が精神疾患のある患者や暴力事件などで収容された少年などに用いられている理由も、そこになるのだろう。

本番の人生には台本も何にもないからなー。下手に台本を作ろうとすると「くさい」人生になっちゃいがちだし、一番手強いかもしれない。
でも、今日入れたお茶がおいしかったり、めだかの子供たちが元気に育ってくれるのを、その分だけ「うれしい」と思える、淡々とした手ごたえのある人生を最後まで生きてみたいと思ったりする。本番の人生にはジェイソン君もスーパー・ヒーローも私はいらない。

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