えこひいき日記

2002年11月21日のえこひいき日記

2002.11.21

気温のアップダウンの激しい日々が続きなんだか妙な感じである。紅葉もそろそろ終わり。比叡山では雪も積もっているそうである。

比叡山の雪の便りを運んで来てくれたのは、クライアントさんだった。この人は、60歳代の女性で、とても熱心に仏教を信仰しておられ、日頃からお寺がらみの行事の世話をしたり参加されたりすることが多い。今回は比叡山の阿砂利さんの回峰行に同行する行事で、5日間ほど寺に詰める日々だったらしい。
もともとこの女性は、ひどい頭痛と肩こり、足の痛みなどがあり、その改善のためにレッスンに着始めた。当初は自分の身体状況に対してまさに「疑心暗鬼」の状態で、少しの異常を感じてもパニックになるような感じだった。病院にいっても「特に異常はない」とシップや安定剤を渡されるだけだったので、自分の身体ながら、「からだ」は「どう付き合ったらいいのかわからない」代物だったらしい。しかしレッスンを進めるうちに、自分の身体症状が「からだの使い方」としてきちんと原因や理由のあるものだとわかってきて、ずいぶん表情が明るくなった。相変わらず起こるときには痛みは起こるのだが、ずっとましになったし、自分なりに対処方法がみえてきたのが大きかったようだ。
「今回の「行」の参加も、本当は迷っていたんです」と彼女は言った。彼女がまず考えたのは「他人への迷惑」だった。もし頭痛や膝の痛みなどが起こって他の方に迷惑をかけたらどうしよう・・それならいっそ止めておこうか・・という考えが頭を過ぎったという。それに前年の同じ「行」の際に、彼女は山道で転んで肩を強打したことがあったので、その記憶も脳裏を過ぎったのだろう。しかし参加を見合わせたとて、彼女の気持ちのがすっきりするわけではなく、後悔が残るのである。不参加の自分を責める気持ちが自分の浸してしまう。揺れる天秤秤のような気持ちで、彼女が選んだのは「参加してみよう」ということだった。ただしずっとお山に泊まるのではなく、自宅から毎朝お山に通うことを選択した。しかしそれだって、毎朝まだ明けそめぬ時間に家を出て山に向かわなくてはならないのだから、たいへんなことなのである。

話をうかがっていて私が一番嬉しかったのは、「彼女なりの「行」」、つまり、「彼女なりの参加の仕方」をみつけたことである。結果としてすこし肩の痛みやふくらはぎの痛みは生じたけれども(雪の山道で、思わず力んで歩いてしまったらしい)、そんなことはたいした問題ではないし、そのことを本人も理解している。大事なのは、自分自身の「からだ」や「感覚」に対する「最低の信頼」をもてる、ということである。「したい無理」と「しなくていい無理」のみわけがつくことである。
彼女のように(ハムレットのように?!)「しようか」「しまいか」と迷う体験は、誰の身にもあることだと思う。結果は2つのうちの1つ。けれども、それはたかが結果なんだな、と最近思う。どのようにその結果を生み出すかの方が「本編」なんだと思う。でなければ、その「行」はそのときだけの「イベント」で終わってしまう。つまりその時間を「経験する」「生きること」に意味を見出すのではなくて「済ます」方にプライオリティーが移行してしまうのだ。そんな参加の仕方は遊園地のアトラクションよりもつまらない。(そんな言い方をすると、遊園地に悪い気がしますが)どんなに苦しい「行」をするとしても、それは苦しむためではない。苦しむことが「行」の価値ではない。それを経て生きるためだ。苦しんで、死んでは成らない。生きて成らなくてはならない。
こんな言い方をするのは何だけれども、闇雲に参加することの方が、参加を迷うことより楽かもしれない。「どうして参加しないの?!」「不信心だ」と参加しないことを責める自分や「周りにそう見られているのではないか」という思いと対面することを免れられる。しかもそれが高名な宗派の「修行」という、ある種の「ブランド価値」のあるものであればなおさらであろう。現に彼女はずっとそうであった。「自分がどうしたいか」よりも「他人にこう思われたら困る」という思いの方が少し強くて、それで行動を決めてきた。

でも今回、彼女は「自信」をお土産に山を降りてきた。その「自信」は他人に誇るためのものではなく、自分に対するものである。「今度は八十八箇所巡りをしてみたい」と意気盛んであった。たくましい。

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