えこひいき日記
2002年12月25日のえこひいき日記
2002.12.25
唐突だが、どうして「クマのぬいぐるみ」ってたくさんあるのだろう?有名なテディ・ベアを始めとし、子供用の玩具のデザインや、シールやらキーホルダーやら、お洋服の模様に至るまで、「クマ」をデザインしたものは沢山ある。普段なんとも思わないのだが、「なぜクマを?」ということに急速に疑問を持ってしまったのだ。
現実のクマは、猛獣である。特別な許可を取って個人で飼育する人もいるが、一般的に気軽に飼えるような動物ではない。動物園でも厳重に折や索で人間と隔てられ、逃げ出そうものなら間違いなくパニックになる。たまに新聞やテレビ・ニュースで報道される「住宅地にクマ出現!」なども、「クマが出たよ、みんな見においでー」という意味ではなく「危険!注意すべし。もしくは退避せよ!」という意味である。クマはでかくて、力も強く、襲われると人間は叶わないことの方が多いし、けして「かわいい」存在ではない。北海道の熊の木彫りの置物のクマの姿も、ひたすら勇壮で逞しい。
それがなんだって「ぬいぐるみの定番」となり「かわいいもの」になっていったのだろう?
まだそれほど深く調べていないので、なんともいえないが、ひょっとしたら多くの「人形」作りのルーツがそうであるように、本物と相似形のものを作ることによってオリジナル(本物側)のパワーを「人形」を通してコントロールしようとする、呪術的な側面があるのかもしれない。「クマのぬいぐるみ」を「そういうもの」として最初から「かわいー!!」と思って見ることができる現代人にはちょっと実感がわかない話かもしれないが、本物をコントロールすることは難しいが、そう出来たらいいなと願う、その「願い」のかたちが「人形」であったりする。だから実際にはコントロールできないものを「かわいいもの」にしていくことで、人間は間接的に世界を支配していったのかもしれない。
でもこれにもまた洋の東西の文化の違いがあるのかもしれない。「ぬいぐるみ」のような用途の「動物を擬人化した玩具」は日本に昔からあったのだろうか。あんまりないような気がする。そのあたりは文化による「自然観」の違い、人間と動物はどう違うのか、という認識の違いなのかもしれない。
箱庭療法などを例に出すまでもなく、その人の所有物やインテリアはそのひとの「世界の把握の仕方」を映し出す鏡である。そう言う意味で庭や、建築物や、都市設計はそれを作った個人の、国の、あるいは時代の意識を映し出すものである。
以前、テレビで19世紀くらいのベルギーの王族が温室作りにかまけ「冬の庭」と呼ばれる巨大な常夏の温室で、真冬にパーティーを催すことを喜んだというのを見たが、その喜びはまさに「自分だけ地球を手に入れる」喜びのであろう。日本でもシルクロードに探検隊を派遣したことで有名な大谷光瑞が、六甲に「二楽荘」という学校を作ったときに、その室内のしつらえを一つ一つ各国の様式で作ったと聞いたことがある。私の子供の頃の夢も、それとそっくり同じ「いろんな国の様式を持った部屋のある家にすむ」ことだったので、自分が生まれる前にそんなことをやっちゃっていたおっさん(失礼!)がいたことを知って、内心ちょっと悔しかったりした。
ワニなどの猛獣を飼いたいと思うのも・・・いや、特に猛獣でなくとも、猫や犬やぬいぐるみでも、そうやって「自分の宇宙を満たす」作業なのだろう。では「それ」で満たそうとする「わたし」という名の「宇宙」とはどんな状態の「宇宙」なのか・・・そんなことを考えていると話は尽きない。