えこひいき日記

2003年2月21日のえこひいき日記

2003.02.21

京都にある錦市場やその近所のデパートの地下食料品売り場などは、事務所から近いのでよく立ち寄るのだが、そのデパ地下で2日連続してある「おじいちゃん」をお見かけしてしまった。どうやらこの「おじいちゃん」はこの界隈では「要注意人物」としてマークされているようなのだが、それというのも、勝手に売り物を食べてしまうかららしい。私が見かけたのはドライフルーツを売るコーナーで、量り売りで売られているためにどさーっと客の前に積まれているフルーツを売り子のおばさんがあっち向いているあいだに「おじいちゃん」はぱくぱく食べてしまうのである。「もう、何回言ったらわかるの!ええかげんにしいや!」とどなる売り子のおばさんのパワフルさに対し、この「おじいさん」はいたってのらりくらり、聞こえているのか聞こえていないのかわからないようなそぶりで大して歩みを速めもせずその場を立ち去っていくのだ。おばさんの怒鳴り声やセリフも前日と同じなら、「おじいちゃん」の行動もそぶりも全く同じ。同じテンション。なんだか不思議な日常風景だなあ、と思ってしまった。
嫌なことで繰り返されることって、そのくりかえし回数が重ねなれるほどに疲弊感というか、嫌な感情は積もっていくことが多いのだが、この二人のやり取りにはそれがない。「おじいちゃん」は常に慌てもせず、急ぎもしない。おばさんも、職業的リスクときっぱり諦めているのか、やなことだけれども「許容範囲」内で、かつそれに当てられるエネルギーが安定していつも「定量」なのか、よくわからないが、大して防御策を講じている風もない。どこかで「おじいちゃん」を許しちゃっているのかもしれない。
それにしても、ほんとに今日が昨日のコピーのようなやり取りだった。しかし本人たちには「コピー」という意識はないのだろう。これがロングラン公演の舞台の上だったらブラボーな演技だといえる。ちゃんといちいちその気持ちになって行動している上に、本人たちがそれに飽きていない。「日常は不連続の連続」と言った人がいたが(鶴見俊輔さんだったかしら?)、やりとりの一回ごとに「けり」がついているから後を引かず、そのように「終わっていること」(不連続)だげ、その「一回一回終わること」が続く、というのが正しい日常なのかもしれない。それを「つまみ食いをめぐる攻防」に適応するべきか否かという部分は別にして、「一回一回完結することが、続く」という日常のあり方は結構健康的な気がする。

ドライフルーツをどっさり客前に盛り上げて売るような売り方は、縁日でも行われる。同じ食べ物を売っている場所でも市場やデパ地下と縁日では場の雰囲気がずいぶん違う。いわば「日常」と「非日常」という感じ。子供の頃、綿菓子が欲しくて親にねだると「衛生的ではないから、いけない」と言われたことがあったが、「衛生的」なのかどうかという部分は日常の市場とて五分五分かも知れない。恐らく、親がいいたかったのはもっと別のことだったと思う。
おとなになってみると、綿菓子が「おいしい」かどうか疑問になってくるし、けっこう質素な材料で作られているものがどうしてあんな値段で売られているのか、知識がついた分疑問をもてたりもする。しかしおとなになっても、あのふわふわした形にはそそられるものがあるし、お腹一杯のときでも縁日のたこ焼きには手を出してしまったりする。そういう時、自分はいわゆる「食事」をしているのではなく(栄養という観点で見れば、縁日の食べ物は偏っているし、第一お腹がすいたから食べるのとはちょっと違う)、祭りの「華やぎ」を買っているんだな、と思ったりする。そういうのは食物の含有栄養素とは別の働きで、人を元気にするような気がする。

「日常」の栄養も「非日常」の栄養も、普通に生きていくためにどっちも必要な気がする。

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