えこひいき日記

2003年2月24日のえこひいき日記

2003.02.24

私は仕事柄、私自身は全くやったことがないことをしている人を教えることが多い。例えばゴルフとか、マラソンとか、体操競技とか。いや、それどころではなく、ほとんどのことを私自身はしたことがないことが多い。人間が違うのだから当然ともいえるのだが。しかし例えば私がクライアントに理解を示したり、より的確なアドバイスが出来たときに、それは私がクライアントと「同じ経験」をしているからではないかと思われることがある。例えばバレエとか。確かに私はバレエのたしなみがあるが、しかし「バレエをしていたから」相手のことがわかるわけではない。よく考えてみれば、クライアントだってこれまで同じバレエをしている人から「理解されない」経験をしていると思うのだが、多分その瞬間はそのことを忘れているのだろう。
私がクライアントの「からだ」にみているのはすこし別のことである。

私自身はしたことのないことで、ATレッスンの指導回数が多いものの一つに「気功」「太極拳」がある。私は普段「気」というもので人のからだを観ないので、よくわからない部分もあるのだが、しかし「気」を自分のからだに通そうとして陥りがちな「からだの使い方」の間違いについてはかなり詳しくなったような気がする。それをクリアするだけで「気」の通りが格段に豊かなものになることも、目の前で何度も見てきた。それを通して、彼らが現象として何を「気」と呼んでいるのかを私なりに理解しやすくなったように思う。
「気功」や「太極拳」で行われるような一定の動作を通して、自分のからだに感じる「気が通る」感覚は、本人にしか感じ得ないものだから、それがどんな感じなのかはこちらにはわからない。しかし本人がそう思っていることが、本当にそうなのかは、なかなか微妙な問題なのである。例のゆったりとして動きをしながら、本人は「気が通っている」と言うのだがどう見てもずいぶん力んでいて、その筋肉のこわばりを突破して動く感覚を「それ」だと感じている・・・つまり「気」そのものではなく、どちらかというと「抵抗感」を感じている・・・ということは、結果からいうとけっこう多い。「動作」を理解せずに「ポーズ」を作ることに苦心してしまう人も少なくない。そうはいっても自らこちらのレッスンに足を運んでくれる人たちは、それが何かはわからぬままに「なんか変だなあ」という感触は持っていた人たちなので、具体的に「からだの使い方」の「思い違い」に気がついてしまえば話は早いことが多い。
そういうことをあるとき、気功や武術の経験者のクライアントと話していたら、笑いながら大きくうなずいていた。彼女自身「あなたはすぐ筋肉で動く」と太極拳や武術の先生から注意をされたことがしばしばあったらしいが、その意味がよりクリアになったのはこちらにレッスンに来てからだったという。そのように、彼女が「自分のしていること」がクリアになり、自分の中でつながっていくのは、私としてもとても嬉しいことだ。
ところで「ある中国の先生に言わせると、本当は気功も太極拳も「ひとり」で行うものなのですが、どうも日本では同好会っぽくなってしまって、ちょっとへんな感じがすることがあるんですよね」ともおっしゃっていた。彼女のいう「ひとり」とは物理的な問題ではなくて、「主体性」の問題だと思う。
眼の前にいない人間のことをいっても仕方がないのだが、たとえば私のレッスンでも「主体的にレッスンを受けることが出来ない」人たちに会うことがある。全員がそうというわけではないが、個人レッスンを避けてワークショップや何がしか団体になることには出たがるという人たちの中には、主体的に物事と関わるのを避けて適当に和んでいたい、という人がおられたりする。ちょうど、大学の大教室での授業で、欠席するほどの勇気もないが適当に存在を消して団体の中にまぎれていたい、という居方をするのに似ているかもしれない。そういう参加の仕方がいけないとは思わないが、まあその程度であるということはいえると思う。教える側としては、主体的に真剣なほうが嬉しいというのは正直なところだ。
「疑問」は「否定」ではない。しかしそれをうまく区別できない(おそらく、経験がない)人はいる。特に何となく優しげ?で健康によさそう?なものに集まる人たちに限って残念ながら「疑問」の持ち方が下手であることが多い。変に闘争的なのも無駄に時間を食うだけだが、自分が抱いた疑問を消化する消化酵素を獲得してこなかった人たちの中には、往々として「疑問」を抹殺し多数に「同化」することでしか困難感を避けられない状態に在ることがある。それは本当の意味での「理解」とは違うことなのだが、とりあえず、そこからはじめるしかないということなのかもしれない。

「理解」の根拠を種族?として「同じ」であるということに求めるのは、時に短絡的過ぎる。「同じ」とか「違い」というのもそれ自体がどうというのではなくて、状況を判断する視点の問題に過ぎない。

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