えこひいき日記

2003年2月24日のえこひいき日記【追記】

2003.02.24

「気功」の話なんかを書いちゃってから、もういっこ書きたいことが出来てしまった。

23日に大阪のフェスティバル・ゲートという施設の中に新しく作られた小さな劇場にY・A嬢のダンス・パフォーマンスを観に行かせてもらった。クライアントとしてはこちらに定期的に来ていただいているが、舞台の彼女を見るのは久々であった。これまでにも舞台にご招待いただいていたのだが、私の都合がつかなくて、失礼し続けていたのである。
舞台はとてもよかった。その「よさ」というのがちょっと面白い感覚なのだ。なんだろう、食べ物で言うと、すごくおいしい黒ビールを「ごくごく、ぷはーっ」としたような感じだろうか。一気に飲み干す「勢い」と、後味の「爽快感」。でもそれで「味」そのものが飛んでしまうわけではない。この後味の「切れのよさ」がなんとも不思議な感じがしたのだ。なぜならダンスの内容自体は「おもしろ&せつない」感じにちょっと残酷風味?!をまぶしたような、私好みのけっこう濃い感じでもあったからだ。しかし彼女のダンスの濃度は、べたつきがない。「濃い」ものにありがちな、まとわり付くようなしつこい甘味もない。舞台の上の彼女のからだの表現には全く容赦というものがなくて、ひょっとしたらぜんまいを巻きすぎた機械のように肉体がばらばらと壊れてしまうのではないか、というような危機感が観ている私の頭を掠めたりする。しかしオソロシイことを言うようだが、観ていて一向に「やめてー」という感じではなくて、どこか、心の底のほうで「もっと・・」と呟いてしまいそうな、そういう「危機感」なんである。
ちょうど子供が異様な集中力で延々と同じ遊びを続けるさまに、大人が「無邪気さ」と同時にある種の「残酷さ」というか、ちょっと恐ろしいような感じを抱くことがあるように、彼女のダンスにはある「きりのなさ」があるような気がする。「満足」というものがけして「終わり」を意味しないのだ、ということが急速にリアリティを持ってこちらの心臓に迫ってきたりする。最初に手にしたビールがどんなにおいしくても、その1杯では終わらないように。それは1杯目に不満があるから次、とか、そういうことではない。空腹や不満足から来る飢餓感から次に手を出すことは、行為として単純だ。その飢えが満たされれば希求する気持ちも消える。しかし飢餓しているわけではないのに、満たされる感覚もあるのに、そのピークを過ぎた瞬間から「次」を求めずにはいられないような感じ。なんか、まじめに「生きている」ってそういう「きりのない飢え」なのかなあ・・などとしみじみ思ったりもした。まさしくタイトルの「混沌の求体」の通りに。
こんな風に書くとじめじめして聞こえるかもしれないが、彼女のダンスはあくまでスーパードライである。レッスンの中では時々話したりすることなのだが、いさぎよく「狂って」みせられるということがクリエーターの実力かもしれない。「狂」というのも一種の「異常」だが、「異常(ふつうじゃない)」といっても全てが「disorder」、つまり単に「壊れている」わけではない。だがその境界は極めて危うい。私が「からだの使い方」などというものを教えているのは、身体に対して保守的になるためではなく、むしろ己の能力を尽くすためである。もちろん傷めて欲しいと思っているわけではない。ちょうどパイロットやダイビングなど、「死ぬかもしれない」リスクの高いことをする人がけして「死ぬ」ことを目的としてそれを行うのではないように、極限に至る行為というのは無茶苦茶をするのとは似て非なる行為なのだ。やり尽くすカクゴがあるからこそ自分のことを正確に知らなくてはならない。でも妙に「からだ」のことなどかじっているダンサーの中には、本当の意味での力の使い方が判っていなくて、ただヤワに力を抜くことや力を入れないことがそれだというふうに勘違いしている人もいるが、そういう作品は観ていてたいへんばかばかしい。そんなんと比べるのも失礼だが、彼女のダンスのかもし出す「飢え」の感覚はとても残酷に爽やかなのである。中途半端な豊かさよりも、ずっと心を満たす。
満足感ゆえに抱く「飢え」。どんなものでも「終わっていく」のだという「飢え」。それは不満ゆえに抱く飢えと比べればずっと「豊かな飢え」なのかもしれないが、それゆえにとってもオソロシイな、と思ったりするのだ。

舞台の上のY・A嬢はガラスか金属のような繊細さと鋭さを備えたダンサーなのだが、舞台を終えて楽屋口に現れた彼女は明るくてかわいい人である。私を見つけるなり「きゃー、せんせい、みにきてくれはったんですかー!うれしぃ」と大きい声で言ってくれて、なんだかこっちがどきどきしてしまった。彼女の飽くなき目論見に加担できることは、教師としてしあわせなことだと思っている。

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