えこひいき日記
2003年5月10日のえこひいき日記
2003.05.10
その人にその能力がないわけでもなく、また身体構造的に損傷を起こしているわけでもないが、その能力を発揮できなくなる状況がある。例えば「疲れている」時がそうである。とはいえ、「疲れ方」は人それぞれ、千差万別であることはどなたにも何となく経験があるのではないかと思う。いかにも激しい運動や多くの仕事をこなして、それで「疲れる」というのは解りやすい疲れ方だが、その一方で「なんでこれぐらいのことで・・」ということでも人は疲労することができる。後者はときに「体質だから」「弱い」などと称せられ「変えがたいもの」のように語られがちだが、実はたいてい「仕方」の問題であることが多い。そうした状況の改善・回避手段として普段私は「からだの使い方」を教えているわけである。しかし私の教え方としては、いち早く疲労を払いのける方法を教えるというよりも、「疲労することが出来るからだの使い方」、つまりその人の「疲労の形成メカニズム」「理由」を理解してみることから始める事が多い。へんな言い方かもしれないが「疲労することが出来る」というのも、紛れもなく「身体能力」の一つなのだ。知ることができれば、それすらその人の「実力」の一つになる。ある程度の活動をすれば相応に消耗し、疲れるのは自然なことだが「どこから先がやりすぎや、やり方の不適切さによる必要以上の疲れすぎか」が感知できるようになれば、その人の体調なり精神状態なりは、かなり安定した状況を存続しやすくなるだろう。
これが最初でもなく、多分最後でもない自分自身の身体状況を「敵」のように見なすのは得策ではない。それを知ることが、自分自身の「生かし方」を見出すきっかけになると、私は思っている。
そんなことを改めて書く気になったのは、主に二つの出来事があったからかもしれない。
一つは、このゴールデンウィーク中のワークショップの中で、わたしは多くの人に会うことが出来たのだが、そこで改めて「これをしなさい」という教育のされ方をしている人は非常に多く、同時に「なぜそうしなければならないのか」を知ってそうしている人は非常に少ないんだな・・・と思ったことである。だからともすればそうした参加者から出てくる質問は、「どうすればいいのですか」という、本質的には「質問」ですらない、「命令」を乞うものになりがちである。自分で何かを考え、それに基づいて行動し、試して、手ごたえを確かめながら物事を身につけてきた経験がない人にとっては、自分の中に生じた疑問はただの「嫌なこと」にしか感じられないのかもしれない。だからその事態から脱出することに躍起になってしまう。だが、残念ながらその行動から解決に向かうことは難しい。まどろっこしいようだが、何が起こっているのか、何にどう困っているのか、それをみることの方がうんと早く解決への糸口をつかめることが多い。
「どうすればいいのか」にあせっていそしむ人の多くは、なんと観察力、感受性に乏しくなることか。目の前に膨大なヒントがあるというのに、それが見えないのだ。仕事とはいえ、私は時にそれに呆然とすることがある。でも、したことのないことを最初からできる人は居ないわけだし、言えば「見える」こともある。だから私も絶望せずにこの仕事を続けていくことが出来るのだろう。「観察力に欠ける」「見えない」というのも、能力そのものの欠損ではなく、多くの場合「それ以外のこと(例えば「やらねば」というあせり)」にエネルギーを費やしすぎたことによるもので、いわばそれも「疲労」の一種なのだ。その状態をすこし脱することができれば、視野が広がり、何か新たなものが見えてくることも少なくない。
もう一つ、「疲労」という状況に関して考えるきっかけとなったのは、2日ほど前に観にいったパフォーマンスであった。私の目から観て、彼らはちょっと疲れているように見えてしまった。本人たちにそう言うと「それもあるし、あと、練習不足かも」とのことだった。昨年から彼らのスケジュールは結構過密で、舞台の回数も少なくない。疲れているのに、作品のクオリティーが落ちないことに感心するとともに、でも疲れはしているんだろうなあ・・と複雑な気持ちで思った。繰り返して言うが、彼らの踊りがよくなかったわけではない。だから驚いたのだ。疲れていなかったらまた違う表現にはなっただろうが、その身体条件ですら魅力的なニュアンス(あえて言うならミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』的な)に観えたことがすごくよかったのだ。
意地悪な言い方かもしれないが、舞台というそこで行うことがただの物理的な「動作」ではなく「表現」として捉えられる空間において、疲れているという身体条件がどのような表現につながりうるのかは、興味深いところだ。ただし私が言っているのは「疲れた表現」をするために本当に疲れた状態で舞台に上がるというような、チープなリアリズムのことを言っているのではない。疲れていようが元気だろうが、その身体条件を本人が主体的にどのようにいかせるか・・・というパフォーマーのセンスを問うているのである。自分の「元気」を体力的な暴走にしか使うことが出来ないことだってあるし、病身や老齢で体力的に恵まれた状態でなくても素晴らしい表現をする俳優やダンサーや作曲家や作家だっている。私がパフォーマーに「からだの使い方」を教えている意味はそこにある。「疲れない身体」を獲得するために「からだの使い方」を教えているわけではない。やることをやれば相応に疲れるのが自然だ。しかし「自分に何が出来るのか」「何がやりすぎなのか」を知っていれば、過剰な疲労からは免れられるだろうし、その状態すら条件として今の自分を生かせるような「いかし方」が見えてくることもある。
前述のような、感受性や観察力の欠損を招くような「疲労」もあるが、それが本当に厄介なのは、その状況を本人が知らないということにあるのであって、その身体状態そのものの問題ではない(もちろん、程度というものがあるが)。「疲れないように」と栄養剤をしこたま飲んで、健康器具を使ったり、酸素チェンバーに入ったりマイナスイオンを浴びまくるのも悪くないが、「その状態」を潔く生きてみるのもまた本人の度量、実力だという気がする。
話がやや脱線するが(だが関係もするのだが)、ゴールデンウィーク中に印象的だった会話の一つに「健康」と「死」に関するちょっとした会話があった。それは私のところへレッスンに来ていたある身体障害者の女性の死に関する話だったのだが、話をえいっ!と要約すると、究極的な言い方をすると「死は、果たして不健康なのだろうか?」という話であった。
このようにして改めて、明確に言語化して問いかけるならば、多分答えは「否」であろう。「死」は、それ自体が「不健康」でも「不自然」でもない。誰しもに必ず訪れる「生の終焉」が「死」である。お別れは辛いし、そう言う意味で「死」は望まれるものではないかもしれない。だがその一方で古来から「ぽっくり寺へのお参り」などに見られるように、「ぽっくり」という死に方・・つまり直前まで元気に生を謳歌して死ぬこと・・病院で寝たきりになったり、「スパゲティー症候群」と呼ばれるような病院の生命維持装置で長らえた末に果てて死ぬような「死に方」を「したくない」、苦しんで死にたくない、と望む「生き方」がある。「あなたはどんな死に方をしたいですか?」と問われたときに多くの人が望むのは、多分、幸福な生の終末としての「死」ではないかと思うのだ。
しかし「健康」と「死」のイメージは思わぬところで混乱することがある。例えば、その障害者の死がそうだった。それらは対立概念ではない。「健康」とは「非(あるいは不)死」ではない。だが、ときにそのようなイメージを引き起こしてしまうものなのかもしれない。
ある先天的な身体障害を持ったその女性は、当初自力ではほとんど歩けない状態で私のところへ来た。私には身体障害を治す力はない。ただし「からだの使い方」を彼女の身体条件にあった適切なものに指導することは可能かも知れない。そういう合意と認識のもとに、レッスンは開始された。その結果、彼女は歩けるようになり、自主的に行動を起こすようになり、そういう意味でどんどん「元気」になっていった。そのことは、本人もだったが、彼女の家族や親しい人たちも喜んでくれていた。
その喜びに水をさすようであったが、私は何度か折をみて両親には「私は彼女の障害を治せるわけではないし、時計をとめられるわけではない」ということを話していた。あたりまえだが、私には「奇跡」を起こすことなど出来ないのだ。私の仕事はあくまで「合理」の範疇の出来事である。
障害をお持ちの方に限った話ではないが、私の仕事でお手伝いできるのは本人にあった「からだの使い方」を教えることである。そのことによって劇的に体調や活動範囲が変化することも、珍しいことではない。それは喜ばしい変化ではあるが、しかしその「劇的さ」に目を奪われすぎると、人は一挙に「現実を無視した楽天的なイメージ」を抱いてしまうことがあるようだ。それも人情ではある。しかしそれはやはり現実とは違うのである。「からだの使い方」で出来ることは、無用の「連鎖」や「混同」を食い止めることだけである。例えば、どこかに痛みを持っていたり、障害を持っていたりすると、あらゆる不調や不快感の原因を「それのせい」にしがちである。それが私の言う「混同」や「連鎖」である。実は、「それ」とは関係なく、充分に可能なことだってあるのだ。この彼女の場合も、「障害のせい」と「混同」していた要素があまりにも多かった。だから変化が著しかっただけである。そして彼女はその変化を積極的に受け入れ、楽しんでくれた。その楽しげな様子がまた彼女の周囲の人たちに楽観的な「奇跡」を願わせてしまったのかもしれない。
きつい言い方かもしれないが、彼女は「死」に確実に向かいながら「元気」になっていったのだった。もちろん積極的に「死のう」として生きているわけではない。けれど生の結末として、それはやってくる。だから、死ぬまで、元気に、生きること。最後まで、生きること。私はそれ以外のことに関してお手伝いは出来ない。誰に対してだってそうなのだが、彼女に関してはそれが一般的な状況より早く、突然に訪れるかもしれない。出会ったときからそれを覚悟して、私は仕事をしていた。
「彼女があんなに元気になっていったのを見ていたから、亡くなるとは思わなかった」「どこかでもう治るんじゃないかという感覚すらあった」というコメントを彼女の死から2年の月日が経とうとしている時に聞いて、私は内心ショックだった。そうか、やはり混同してしまうんだ・・・と思った。複雑な気分だった。私には死なない人間は作れない。死なないことが望みだというのなら、私に出来ることは何もないのである。
生死に問題よりは小ぶりかもしれないが、「疲れ」だって同じである。私には、疲れない人間を作ることは出来ない。「疲れる」ことが「不健康」だとも、「悪」だとも思っていない。むしろそれを自動的に「悪」と見なしてしまうような概念が出口を見失わせていることもあるのではないだろうか。絶対「疲れ」たり、「不幸」になっちゃいけない、といわれるほうが、よっぽど不自由でしんどい気がするのだ。もちろんそれを積極的に望むのでもないけれど。
「幸福」とか「不幸」とはなんなのかしら・・などと、改めてすこし考えてしまったりしたのだった。