えこひいき日記

2003年7月11日のえこひいき日記

2003.07.11

遅ればせながらだが、今回の世界文化賞の建築部門の受賞者はレム・コールハース(Rem Koolhaas)ということで、妥当と思いつつ、びっくり。なんでびっくりかというと、単に友人が彼の事務所で働いていたことがあったからだ(ニューヨークにある「プラダ」の内装は一部私の友人の作品である)。要するにそういう間接的にして勝手な親近感なのである。友人からレムとその事務所OMAのすてきなところをいっぱい聞きつつ、興味が湧いて読んでみたレムの著書『錯乱のニューヨーク』や『S,M,L,XL』はやはり面白かった。だが同時に仕事においては、なかなかすさまじい人物であることも聞いていたので、人間ってフカカイ・・・などと混迷を深めたこともまだ記憶に新しい。私の友人は「じぶん」というもののペースの保ち方がまだわかっている人間なので、バリバリ仕事をしながらも相手と適度に距離を保ち、それがサボっているだとか、他者を阻害する感じにならないので、レムとのかかわりに中での生物的ポテンシャルの侵食(?)は最小限だったようだが、侵食されやすい人は、ほんとに吸血鬼に血を吸い尽くされた後みたいにふらふらになってしまうらしい。そういう人間が一緒に仕事をする人間だとちょっとたまらないが、間接的に話を聞いている分にはすごく興味深い。

他者からもたらされた情報や思考、思想、感覚などを「理解する」ことを「消化する」と表現することがあるが、本当に、人のあいだを行き交う「思考」や「感覚」は時に食物のように「食べ」たり「食べられる」ものといえるかもしれない。私もまた誰からもたらされた知識や思考を「食べて」、「自分の思考」という「ボディ」を作ってきた「肉食動物」であると自認している。そして自分は「ものを教える」ことを生業としているので、いわば思考や知識、アイデアといった「わが身」から生まれたものを「食物」「料理」として提供して暮らしているといえるのだが、そのように「身を削って」供することが苦痛でしかないかといえばそうではなくて、日々一皿を供するときに思うのは「おいしく食べてね」ということで、おいしく平らげてももらえ、その人の血となり肉となって消化されて消えていくのを見るのは、やはり嬉しい。
ただ、例えば「食べ放題」のお店で客が食べきれもしないのにやたらと皿に食べ物を大盛りにしちゃったりするのは、「お得な買い物をした」という所有欲は満たせても、本当に味覚を満たして「おいしく」食事をしているのと限らないように、あるいは食事をすること自体が「悪いこと」ではないけれども、コンビニやファースト・フード店の前に座り込んで食べている人がちょっと迷惑なように、いくら「食べる」ことが自己の生存に不可欠な行為といっても「食卓」が無法地帯となるのはやはり不愉快である。搾取されることでしか自分の身の立てようがない状況に陥ってしまうことも、ちょっと違うと思っている。それは実際の「食卓」でもそうだろうし、知的、社会的な問題を語る「テーブル」においてもそうだろう。要するに、お互い相手に対する最低限の敬意を忘れずにいたいな、ということであり、「食べる」「食べられる」という関係が単純に「強者」「弱者」といった上下関係の構図で語れるのか?!ということなのだが。
奇麗事じみて聞こえるかもしれないが、「食べさせて(食べられて?)くれてありがとう」という感謝とともに、食べた分を生かすべく生きよう、他者に食べられながらもそれで自分が消滅するほどではない程度にわが身を養える自分でありたい、という、自戒に似た思いが私にはあるのである。別に私とてお祈りのように食事の前にいつも思うわけではないけれども、そういう思いを抱いて「食事」ができることは、ちょっと(かなり?!)幸せな「食卓」(人生?!)の風景なのかもしれない。

ところで本日はJ&Mの東京公演作品のリハーサルにお邪魔した。昨年「トヨタ・コレオグラフィー・アワード」の「大賞」と「次世代を担う振り付け家賞」をダブル受賞した二人の、いわば凱旋公演である。今回は上演時間1時間に迫る大作である。でずっぱりである。だからリハーサルも大変。「体力」とか、あんまりマッチョ系の言葉は似合わないお二人ではあるが、正味、体力勝負である。汗だくだく。しかし作品の内容は、暑苦しくヒートアップすることを見せ場やクライマックスとするような「これみよがしな」作品ではなく、ある種淡々と、独特の間と、ユーモアをこめて、しかし一歩も譲らない、「引き」のないダンスが繰り広げられるのだ。
そういうテンションをキープして「ちゃんと踊る」のは並大抵のことではない。すごく難しいことだと、私もわかっている。しかしやるしかないのだ。「そこ」が彼らの魅力を最大限発揮できるポイントだからだ。だからすごく難しいことを要求している・・・とわかっていても彼らにあれこれ言ってしまう。それに真摯に向き合ってくれ、微細な表現の違いに目を凝らし、一番よい「そこ」を探る作業に手を抜かない彼らの姿勢には、ほんと、頭が下がる。そういう作業に関われるのはとても幸福なことだ。

彼らとも「存在感」と「エロス」についてなど話したことのあるのだが、私はこのところ「存在感」とか「間」とか「型」といういうものが気になって仕方がない。この話を書いていると恐ろしく長くなってしまうのだが、でも気になるからなるべく簡単に書いちゃおう。
「存在感」とは、ただ物や人が物質的にそこにいることとは違う。物質的は確かに存在しているのに「存在感がない」ということがある。一方で「存在感がある」人がけして物質的に大きな体格だったり、大きな声の持ち主とは限らないように、「存在感」と「質量」とは正比例の関係にはない。「存在感」とはなんなのか。「存在感がある」ことが無条件によいこととも言えないし、「ない」ことが悪いことだとも言えない。ともあれ、「存在」と「存在感」がともに「そこにある」ことは、実は稀有なことなのかもしれない。
「存在感」については、数々印象的な体験がある。このような仕事をしているのも、もとはといえば、「存在」を超える「存在感」というものにノックアウトされた経験があるからかもしれない。しかしそのような幸福なことばかりではなく、「存在」を下回る「存在感」に脚のすくむ思いをしたことも数々ある。
ある女性ダンサーのグループがある社寺の庭を舞台として公演を行ったことがあった。そのダンサーは非常に素晴らしいダンサーで、技術的にも申し分なく、けして下手なのではない。ところが公演の中ほどで風が吹いて、庭木がそよいだ時に、彼女の存在感が木の存在感にかき消されてしまったのだ。繰り返すが、彼女はけして「踊れない」ダンサーではない。しかし、ダンサーが1本の木より「踊れない」ということがあるのである。雄弁な手足を持つ彼女が一本の庭木の存在感に負けてしまう・・・それはほんの一瞬、「風が吹く」という自然の出来事に対応しきれずに、自身が「ここにある」ことを忘れた瞬間が露呈した瞬間だったのかもしれない。野外は怖い・・・といってしまえばそれまでだが、恐らく劇場内でも本質的には変わらない問題が存在するように思う。
最近では、あるダンスを創作するワークショップにお邪魔したときに「存在感」のことを考えてしまった。指導者のナビゲーションに従って、2人組になった参加者がムーブメントを作っていくのだが、どのチームを見ても一様に気になったのが、いかにも「踊っています!」というパートではハイレベルな技術や身体能力を発揮しているのに、ちょっと歩いて2人の位置を変えるとか、振り向いて歩いていくとか、そういうときの「存在感」が愕然とするくらいないことだった。まるで生地や(か)デザインはよいのに縫製の悪い服を身にまとったときのような、微妙な心地悪さ。みているこちらまで「がくっ」とこけそうな感じ。「存在の仕方」なんて、ダンスの技術としては教えないものだから、仕方がないといってしまえばそれまでだが、しかし踊っている本人が認識していない身体の存在は観客に対して舞台上で提示しようもないわけだから、まずは自分の中の「自分の身体」を探ることからそれは見えてくるのではないかと、私は思ったりするのである。

私はやはり存在感のあるダンサーが好きだ。立っているだけで、黙して語れるダンサーが好きである。ただしそれは「立っている」「しゃべるな」という意味ではなくて、例えばダンサーに限らず音楽家や俳優でも、その人がそこに立った瞬間にそこから始まることの「出来」が透けて見えてしまうことがあるように、これから起こる可能性を全て内包してたたずむことが出来るような、強い自己を持った人間が好きなのである。このように書きながらも、いったい何が見えている(何を見ている)から「こいつはいける」と思うのか、うまく書けない。きちんと説明するのは難しいが、恐らくそれは「存在感」とかかわりのあることで、根本的にアーティストが舞台に立つ意味と関わる何かであるような気がする。振り付けや技術的なことを間違わずに行うことも大切であるが、しかし間違わないことが成功というのではない。きわまるところ、アーティストは舞台の上で「何をするか」が問題なのではなく、「どのようにそれをするか」が問題なのだと思う。だから何をしてもよいわけだが、それはいわゆる「無法」というのではない。自分がしたいことをきちんとしなくてはならない。それは欲望に満ちていながらストイックな行為だ。
そうしたもくろみに加担できることはやはりわくわくするのである。

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