えこひいき日記
2003年9月3日のえこひいき日記
2003.09.03
9月には入ったとたん、暑い日々です。
ところで、「アルゴリズムたいそう」の本をもらった。わーい。「たいそう」といっても、これはなんら(ストレッチ等の)身体的効能のために行う運動ではなく、かといってダンスのように「それを通して何かを伝える」とかいうのでもないし、「たいそう」をする「いつもここから」というお笑い芸人さん2人にしても、常に真顔で微妙に姿勢が悪く(それゆえに動きには「微妙につまんなさそうな感じ」が漂っていて、よいのだ)お互いの視線を合わせることもないし、まさに「順番通りに」たんたんと、かっこよくもなく、かといってださくもなく、動くのである。しかし私は大層気に入っている。
その本を見ながらしみじみするものでもないかもしれないが、動作を言語化するのは難しいものだな、と改めて思った。
動作の指示はたいてい「外」の視点・・・つまり「観客」というか「その動作を行う当の本人以外」の目で見た(見えた)ことを指示語の形式で書かれている。例えば、ダンス・クラシック(バレエ)で有名な「アラベスク」というポーズがあるが、その脚の動きについて「脚をあげる」という表現が使われることは珍しくも何ともないが、それは「観客」の目線での事実(「脚が空間的に上方に在る」)であって、実践者の立場としては「片方の脚全体を股関節から後方に振る」と表現した方が適切である。些細な表現の差ではあるが「(うえに)あげる」と「(うしろに)ふる」ではその行為に要する力加減は随分違ってしまうことがある。
このように、実践者がその言葉のままに行うには不適切であることも少なくない。加えて、言語の特性として同時性が表現しきれない。たとえ言語表現的に「それと同時に」と書いたとしても、文章や話し言葉として本当に同時に言うことはできないので、必ず何かを先に言い、何かを後に言うという選択をしなくてはならない。先ほどの「アラベスク」を再び例に出すならば、それは「脚」という身体部位のみで行う動作ではなく(その部位が最も目立つことは確かだが)背中を反らすタイミングや、腕を動かすタイミングによって美しく完成する。この「タイミング」というやつが、言語化しにくいのだ。だから動作を言語だけで習得しようとすることには、自ずと限界がある。
だが逆に言えば、そういう特性を理解していれば、おめおめと罠にはまることもあるまい。私は動作に対して言語が完璧なメディアでないことは、言語の「限界」(万能ではない、くらいの意味で)であり「役割」でもあろうと思っているので、それほど悲劇的なことでもないと思っている。言語のみで動作を習得することはかなり困難ではあるが、動作を言語化することは意味深いとも思っている。「自分が行った動作」を言語化できるということは「自覚がある」「認識している」ということで、それがあるのとないのとでは動作の上達や洗練に雲泥の差が出る。
自著にも記したが、単に「できること」がすべて「身についたこと」や「実力」というわけではない。傍目から「できている」と見える動作であっても、本人に何をしているのかという正確な認識がなければ、再現することは難しく、そのコンディションの良し悪しはただのギャンブルになってしまう。そしてその動作が自分にとって「している」という意識も呼び起こさないほど日常的なものであればあるほど、認識と行動のギャップは知らないうちに広がっていることがありえるかもしれない。
そう考えると、自分にとっての「わたし」というのは、この身体から与えられた感覚でできているものなのかもしれない・・・と思うのである。もちろん認識されている範囲にとどまるものではあるけれども。