えこひいき日記
2003年9月13日のえこひいき日記
2003.09.13
3度目の配達となった準備室の鏡は無事に割れていない品物が到着。やれやれ。祝!
とある議論から、自分はどういうふうに仕事をしていきたいのかという問題について、考えてしまった。「自分はどういう風に・・」という自分自身への問いかけは何もこれが初めてではなく、割と常に考えている問題なのだが、今回考えたのは、いつもとはすこし違う角度からであった。
アレクサンダー・テクニックは欧米生まれのものである。それゆえ、最初から日本人の指導者がいたわけではなく、欧米人のアレクサンダー教師が来日した際に実際のレッスンを受ける意外に学ぶチャンスはなかった。アレクサンダー・テクニックに関する翻訳書の訳者もまた、アレクサンダー・テクニックに何らかの興味を持って下さっていた方には違いなかったが、ご自身がアレクサンダー教師であるわけではなく、レッスンを充分に体験しているというわけではなかったという事情から「言語的には正確だが、意味的には・・」という翻訳も少なくはなかった。
だが、そのような状況は日本人教師も徐々に増えてきた昨今解消されつつある問題であり、「問題(トラブル)」というより「困難」に過ぎないものである。
現在世界的なアレクサンダー教師のソサエティーの中で問題として本格化しつつあるのが、日本で教えている外国人教師あるいは彼らから教育を受けて「教師」と名乗っている人たちが必ずしも公式な資格を有した人間ではなく、なおかつそうした人たちが実力を伴わない状態で割りと幅を利かせているという問題である。「このままではアレクサンダー・テクニックはこんなにつまらない、役に立たないものなのかと思われてしまう」と現状に深い懸念を抱く声が次第に高まってきているのだ。
私も「区別」は必要だと思う。ただ、この区別に基準を何所に置くかが問題なのだ。
私の知る範囲では、確かに非公認の教育活動を経て「教師」と名乗っている人たちの中には技術的問題や指導力においてかなり首を傾げざるを得ない場合が多いようである。そこを訪れた方には申しわけないが、レッスンを受けても役に立たないレベルに留まる場合はまだしも、レッスンを受けるとかえって具合が悪くなりそうな「教師」もいる。しかし、では公認教師なら安全(?)かというと、そうでもない。教育されたマニュアル・チックなことをオウムのように繰り返すことが「正当」と信じて疑わないようなおばかさんもいる。一方で、ごく少数ではあるが、非公認の教育しか受けていないが、非常に勉強熱心で、自分の能力の提供の仕方をきちんと心得て指導できる人だっている。つまり、どの教師がすぐれた教師かは、最終的には非常に個別の問題であって、団体とか、認証によってのみ保障しきれるものではないのである。
だが同時に、「アレクサンダー・テクニック」とか「アレクサンダー教師」という名称で自分の活動を表現する限り、同じ称号を使う者と(それがどのような人間であろうと)同一視されてしまうことも現実なのである。例えば一部の悪質な医師や警官などによる事件や不祥事によって「どうせ医者なんて・・」「警察なんて、みんな・・」という目で見られて、大半の良心的な活動をしている人たちが肩身の思いをし、そして「自分は違う」とうつむきながら心の中で叫び、そんな思いをしたくないと望むように、「こんな人たちと一緒にされたくないわ」という思いがここにもあるわけである。安易な同一視や一般化はけして正しい認識ではない。しかし、「一緒に思われたくない」と思うような事態がなるべく少ない方がよい、とも思うのである。
そのために自分はどうするべきか・・・と思うのだ。
半分やけのような言い方だが、「そんな馬鹿者どもと一緒にされるぐらいなら、こっちからとっととやめてやる!」というのがこの仕事を始めたときからの基本的な私のスタンスである。そうでありながら、私が今もこの名称を名乗り、この仕事をやめない理由は2つである。一つは、「ばかと一緒にする」のは決まってレッスンを受けたこともない、実情を知らない人たちなので、「所詮、外野の先入観」と思えるくらい、いまの指導活動が充実しているからだろう。日々いろんなことがあるが、でも楽しい。もう一つは、アレクサンダー教師からの情報だけを重用するほどクライアントは馬鹿ではない、ということである。「非公認の教師を廃絶しよう」と息巻く人たちには楽観的過ぎる意見に思えるかもしれないが、「この教師(あるいは、この団体)はちがうんじゃないかなあ」と思ったらクライアントはそこから離れる。そういう判断力と行動力をクライアントは持っている。その部分で教師はある適度クライアントを信用してもよいと思う。
だがしかし、「はずれー」という教師を2人も3人も経験すれば、「アレクサンダー・テクニックって、つまんねーな」と思っちゃうとも思うのだ。私だって、ばかな教え方をしている教師に会うと、ほとほと「つまんねーな」と思っちゃうもの。そのクライアントにとって、アレクサンダー・レッスンが今ひとつ合わないもの(受けなくてもよいもの)であったなら、それでもよい。しかし必要なのに、おばかにひっかかっちゃったせいでそう思うに至るというのであれば、やはりアレクサンダー教師の一人として、切ない。
一人のアレクサンダー教師としては、自分の心に偽らない仕事を精一杯させてもらうことしかないと思っている。同時に、私にとって「アレクサンダー・テクニック」はとても面白い、有効なツールだが、ツールに過ぎないとも思っている。クライアントを前にしたとき、最も大切なのはその人の能力や才能を引き出すことであって、アレクサンダー・テクニックそのものではない。レッスンの中で、アレクサンダー・テクニックの概念はクライアントに「提供」されるべきものであって「強要」するものではない。
どういう距離で私自身がテクニックとこの仕事に携わるのか、繰り返し考えていかなくてはならないだろう。