えこひいき日記
2003年10月2日のえこひいき日記
2003.10.02
あまりよく考えたことがないことかもしれないが、その人が、どういう人なのかを、人はどの部分を見て、どのくらいの期間で、どのように判断するのだろうか。
逆からいえば、例えば「その人」を信用できなくなるパターンとしては、その人が置かれている状況(対人も含めて)と、その状況に対するその人の自己認識と、行動とが著しくかい離している場合かしら、と思ったりする。でもこれも程度の問題はあるので、いわゆる「天然」としてまあまあ周囲に受け入れられるものもあれば、「お前なんか、もう知らない」という断絶状態に一気になだれ込んで復活はなし、ということもある。たいていの人間関係が、状況・認識・行動の曖昧な一致と曖昧な不一致の間で揺れ動きながら、ある幅から零れ落ちないうちはお付き合いは続くような気がする。大好きでも大きらいでもなく。しかし時々、限りなく零れ落ちそうなエッジに近いところに、ものすごく得難いキャラクターの人がいたりする。これが「その人」ではなく他の人だったらとっくに絶交しているし、記憶からも消去しちゃうな、と思うのだが、ただ一点宝石のように光る何かのために憎めない人というのが極稀にいるような気がする。
大学からの友人でもあり、クライアントでもあるNさんはそういう「稀人」の一人である。私は基本的に友人をクライアントにはしない。友人の情で相手の助けになりたいと思っても、それに「プロの見識」を用いることが本当に相手を助けることになるとは限らないし、下手すればそれはただのもたれあいに終わる。それはオリジナルの友情をも損なうことになりかねない。相手を尊重したいからこそ、私はこれに関しては慎重である。だが、彼女は場によってきちんと態度をクリアにできる、数少ない友人でありクライアントである人の一人である。もちろん、本当はそんなふうにいろんな関係性を持てるほうが楽しいに決まっている。
ただ、学生時代からそうなのだが、彼女はかなり、いわゆる「天然」なのである。あまりの「天然」ぶりに、彼女の側を去った友人のことも少なからず私は知っている。何がどう「天然」なのかは具体的には割愛するが、本人に悪気は全くなく、旧・友人達の激怒にたいしても「あら、そうなの?」という感じで、申し訳なさそうにはするもののあまりにも自覚がないというか、悪びれないので、半ばあきれるようにギブアップして「つきあえない」と去る人は去るのである。私も「あんたなあ・・・」と絶句してしまったことは一度や二度ではない。多分、彼女ではないほかの人間が同じことをやったなら、少なくとも私の個人的な人生からは即退場してもらうパターンだと思う。
でも私が最終的に彼女を許してしまうのは、ときどき彼女が見せる恐ろしいほどの「冴え」のせいだと思っている。彼女の「冴え」は「学力」とか「知識」とか「努力」とかいうレベルで獲得されるものではなく、これまた何か「天然産」のものといわざるをえないものだ。「冴えている」ときの彼女は、他の人が地道に何十年かかってもたどり着けそうにないようなことを一瞬にして感知してしまったりする。ものすごく「目が利く」し、言葉も冴える。そういうときの彼女は恐ろしいほど落ち着いて、それを見ていると「何があっても大丈夫」という根拠のない安心感があたりを満たしてしまったりする。それはやや大げさに表現をするならば、雲の間から彼女の頭上にだけ一条の光がさすような感じなのだ。あまりにも普段とギャップがあるので、このことにも周囲はあっけに取られてしまう。
ただこれも恐ろしいことなのだが、彼女は自分のそういう部分にも全く感知(関知)していないのである。「冴えている」ところも「いわゆる天然」な部分も、ご自分では同様に「あら、そうなの?」という感じがベースなのだ。
「プロ」としての私は彼女が自分のそういう傾向性で困ったときだけ、「あら・・」という曖昧な認識をより具体的な認識レベルに高め、行動の選択の余地を広げるべく働くのである。「天然」だとそれなりに人間関係で苦労するし、それなりのストレスも受け(「天然」だってストレス・フリーではけしてないのだ)、身体的にも芳しくない動作の仕方にはまってしまったりするのだが、彼女は「からだの使い方」に興味を持ってくれているので、定期的にここに来ているのである。それは実利レベルで彼女の生活を助けているのだが、私はそういうことも基本的には「どうでもいいや」と思っている。「どうでもいい」というのは乱暴な言い方かもしれないが、なんというか、彼女の「天然の冴え」が著しく損なわれないならそれでいいんだわ、と思っている。処世術的な意味での「努力」なんて基本的にたいしたことではないし、本人がその気になれば多分ちょろいことだ。それよりも、この天性のものをいかに活かし、いかに損なわずにおくか、の方が重要である。彼女の「冴え」は「からだの使い方」が整っていれば発揮されるとは限らないが、整っていないときには発揮されないし、度合いにはよるが「からだの使い方」が不正確と身体的ストレスも増大することはわかっているので、まあぼちぼちと・・・と思っている次第である。