えこひいき日記

2003年12月25日のえこひいき日記

2003.12.25

世間的には「クリスマス」である。(「イヴ」である昨日、ちょっとした買い物でデパートに行ったら、1階のブランド物貴金属売り場にあほほどカップルがいてたまげた。某フライドチキン屋には長蛇の列ができ、コンビニの前には必ず着ぐるみのトナカイとサンタがいた。すごい風景である)
しかし私にとっては「しまい天神」という方がウェイトがでかい日であった。駆けつけたのは、クライアントを朝からお昼も食べずにみたあとだったので、もう縁日もおしまいの頃だったが、おかげで参道を引き返す頃には、境内の灯篭に明かりがともる美しい光景を見ることが出来た。

「しまい天神」とは、毎月25日に行われる京都・北野天満宮の、その年最後の縁日のことである。境内にはずらりと食べ物の屋台や、お正月用の野菜や小物を売る店、あと骨董品や植木を売る店がたち並び、賑やかである。屋台や出店も魅力的であるが、私の本日のお目当ては「大祓」であった。これは6月と12月に「身に溜まった穢れを払う」という意味で行われているものである。年に2回しかない(そうしょっちゅうしなくてもいい・・・という感じかもしれないが)上に、特にこの「しまい天神」では1年間分の大掃除の意味合いもあって、割と次々人が訪れる。名前は大仰そうだが「手続き」は簡単。自分の氏名と年齢を人形の紙に書き、志のお金と一緒に封筒に納めて奉納すると、神官さんがご祈祷の後、人方は燃やして川に流して清めてくれるのだ。面白いのは、氏名を書き込む紙は人型のほかに車型のものがあるところ。「車は、便利なものだが、そのようなつもりがなくても他人を傷つけたりするものにもなりうるし、凶器にもなりうる」ということで、こんなのも用意されている。現代的なニーズに対応していて、なかなか面白い。
それに、この「大祓」のユニークなところは、「意識的な罪」を払う(贖罪)作法ではなく、「無意識の穢れ」を払うものだということだ。明確に悪いことをしちゃった人には直接に謝ればよいが、そういうつもりではなく相手を傷つけちゃったことや、悩んだり腹を立てても仕方のないことなのにいつまでも不快に巣食い続けるようなもやもやした感情には、明確な対象がない。これは、そういうことに一旦「けり」をつけるためのシステムといえるだろう。そのようなシステムが存在するのはありがたいことだと思う。もちろん、ただ機械的に人の形をした紙片に名前を書いて燃やしてもらったところで、どうなるものでもない。大事なのは、そのシステムに自分が自主的に乗っかれるかどうかだ。

過剰に反省的になるつもりはないが、自分の仕事の「罪深さ」はそれなりに自覚しているつもりだ。他人に影響を与えることや、他人様のことに口を突っ込むなんて、基本的に「おそろしい」ことだと思っている。クライアントとの仕事をしていると、ちょっとした言葉の選び方や、行動の選択によって相手の反応や変化が大いに違ってしまうということはよくある。私は、一言を発するまでに、まるで「マトリックス」という映画のように、脳裏に何百という文字や思考の断片が走り抜けるのを感じることがよくある。どれもよく似た言葉や発想達だ。一見、どれを選んでも大差はなさそうだし、実際そういう場合もある。しかし、ある状況においては、「こうでしかない」ということがあって、それを「あたりまえ」に行えるかどうかが私の仕事上の技術ということになるだろう。その中からたった一言の、言うべきことを選び取るのは「あったりまえ」のことだが、「おっそろしい」ことでもあると思っている。おそろしいことだと知りながら、ある次元では切実に必要なことだとも思っているから、私はこの仕事をしているんだと思う。
今年は時に、本も書いちゃったから、見知らぬ人からのコンタクトも増えた。それは多くの喜ばしい新たな出会いをもたらしてくれた。しかし嬉しいコンタクトに比べればほんの小数だが、時に心無いメールや無礼なコンタクトを受けることも増えた。それは「他者の前に立ってものを言う立場の人間」であれば誰しも経験する職業的なリスクだと理解はしているが、真剣に不愉快だし、傷つく。やはりめげる。それはこの仕事を続ける限り、今後も増えはしても減りはしないし、これが最初でも最後でもないことも理解している。だから(過剰に反省するつもりはないが)、目の前にやってきたクライアントならまだ現場での調整も効くが、著作の出版という手段においては、私の表現の仕方が不用意に誰かのコンプレックスに火をつけることがあるし、本人が必死になって自分自身に隠しとおしてきた問題意識をオープンにしてしまうことってあるし、そのことが誰かさんを苦しめることも在りうることを、自分は理解しておくべきだと思っている。相手に対して「悪いことをした I am sorry」とは思っていない。でも、無関心でもない。こちらもどこかが痛いような感じがしてしまう。「I feel so sorry」という感じだ。「ごめんね」と思うんだけれども、責任の主体とか、主語は、微妙に私じゃない。
「sorry」とは思うが、私は「sorry」に足をとられる気はない。先に進みたい。言葉が伝わる喜びと、言葉が伝わらないしんどさを両方知っているから、きちんとやっていく勇気が欲しい。そういう感じかな。

「クリスマス」はどーでも・・・みたいなことを書いちゃったが、今日は実はなかなか良いプレゼントをもらってしまった。それは「ハンディロースター」というコーヒーの焙煎機である。(うぅぅ・・・私のコーヒー道楽もここまできてしまった・・・)ガスコンロの上に機具をセットし、焙煎用のドラムにコーヒーの生豆をセットして火にかけ、ぐるぐるとドラムを回すと10分ほどでコーヒーが煎れる。新奇なものは早速使ってみたい性分なので、いそいそとローストしてみた。最初は、ちょっと日からおろすタイミングを誤って深煎り(エスプレッソ並み)にしてしまったが、2回目はなかなか良い感じになった。早速豆を挽いて、コーヒーを淹れてみた。お湯を吸って粉が盛り上がる具合も良い感じだ。コーヒーの味のほうは、なんとも「やさしい味」と申しましょうか。飛び上がるほど美味、というのでもないが、なんだか飲みやすいような、優しい味であった。最近、スタバのコーヒーばかり飲んでいたせいもあるのかもしれないが、「そうだったわ・・・」と思わせるようなお味であった。
今後豆の種類を変えてみたり、「炭焼きコーヒー」なんてのもあるから、備長炭で煎ると何か違うかしら・・・などと挑戦してみるつもりである。

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