えこひいき日記

2003年12月27日のえこひいき日記

2003.12.27

当然の話だが、クライアントが増えればその記録を書く仕事も増える。ここ最近は、書くスピードとみるスピードが完全にマッチポンプ状態になっていて「記録、書き終わったわ、ぜいぜい」と思ったら、またなんだかんだで2日分くらい記録書きを溜めてしまって「ぜいぜい」するという始末である。
だからとっとと仕事をすればよいわけなんだが、今日はついついテレビドラマの『太閤記』を観てしまった。草なぎ剛氏が秀吉を演じるドラマである。
『太閤記』だけでも何度かドラマ化されているし、それ以外でも何本もの脚本が「秀吉」をテーマに書かれてきたし、何人もの役者が「秀吉」を演じてきた。それらの秀吉像と比べても、草なぎ氏が演じた「秀吉」は異色であった。このドラマはいわゆる時代劇というよりも、ある意味ファンタジーに近いかもしれない。多分、史実と引き合わせたら、「ありえない」お話だろう。しかし魅力的であった。ドラマ作品として秀逸か否かというよりも、彼が役者として上手いか下手かなどというよりも、草なぎさんだから許す、草なぎさんにしか出来ないかも、という「秀吉」だったと思う。つくづく不思議な魅力を持った人だなあ、と思ってしまう。

誰かのファンになることや見知らぬ他人の意見に共感をするということがあって、そのことが人の人生を変えてしまうことって、珍しいことではないかもしれないが、でも不思議なことだなぁと思う。会ったこともなくて、多分その先も会うことがなかったとしても、確実のその人が自分の人生の一部をつくってくれたんだ、という「出会い」があることを、何と呼べばいいのだろう。「ご縁」と呼んでよいのだろうか。
私のクライアントさんにも「草なぎさんで人生が変わった」という方がいるのだが、それは傍目からみても、そうだなぁ思う。喜ばしく、素敵な変化である。草なぎさんのことを語るときの彼女はとても穏やかで、良い顔をしている。彼に関することに対して、彼女の態度や行動には余計な迷いがなく、潔い。そして彼女は「草なぎさん」に対する自らの態度から、確実に自分の人生の他のシーン(草なぎさん以外のこと)での態度をも学んでいると思う。例えば、素直になる(なれる、なっても大丈夫な)こと。意地を捨てること・・・。
とはいえ、彼女の変化は「好きになった」その時点で何の前触れもなく急にそうなったというよりも、それまでの彼女のいろいろな人生経験や考えが彼を好きになることを通して統合されたというか、つながってきたというか、それが表面化してきたというか、そう表現する方が正確だろうと思う。でも彼女にとっては彼との「出会い」がなかったら、彼女の中の様々なエッセンスは一つのまとまりを見せていたかどうかもわからないわけで、そういう「化学ケミス反応トリー」を呼び起こす「出会い」があることって、やっぱりすごいなあ、と思うのである。
「出会い」は、自分では壊せなかった思い込みを破壊する力を持っている。これまで向かい合いづらくて自分からは踏み出せなかったことにも、向き合ってみようとする力と優しさを与えてくれる。そういうのって、やはりわくわくする。

しかし、考えて見れば直接に関わって影響を受ける人の数以上に、膨大な数の見知らぬ他人のそれぞれの努力によって自分の生活が保たれている部分は大きいかもしれない。例えば、今こうして使っているパソコンだって、ネットワークのシステムだって、自分で考えて作ったわけじゃない。電話だって、食器だって、日々食べるごはんも、自分で生産したわけではない。見も知らない誰かがそれぞれの場所でそれぞれの責任を果たし、まっとうに努力しておられるからこそ、私の今ここでの生活の安寧はあるわけである。そういう意味で、私は他者の存在の恩恵の中で暮らしている。他人が作ったシステムや常識の、自分にはフィットしない部分にばかり先に目がいってしまいがちだが、実は「あたりまえ」に運営されているのこと多くが、ただ淡々とその人がその人の仕事や生活をしていてくれることによって支えられていることか。私自身も、見知らぬ他者にとって、そういう他者であれたら嬉しいと思う。全ての人に対して密に関わろうなんて、オソロシイことは思ってもみない。ただ、私のなすべき仕事が、全く見知らぬ人の生活の邪魔にならず、ときに助けになるようなら素敵だなあ、と思うのである。

そういえば先日、「他人のことなんかどうでもいい」というクライアントと「他人と友人とは、どこがどう違う人間なのか」という話になったことがあった。「友人」だって最初は「他者」だったわけで、何が彼女の中で「友人」と「それ以外」にする要素なのかを聴いてみたのだ。
このクライアントさんの振る舞いは突発的で極端であることが多く、他者に対する文句が非常に多い。かといって、常に誰かとけんかをしているというようなアグレッシヴなキャラではない。多分、表面的にはすこし気の弱そうな未成熟な感じの女性と映るだけだろう。だから表面的な人当たりはけして悪くはない。内面はとても排他的なのにそれが表面に露呈しないのは、クレームにしても、言うべき相手に直接言った経験はほとんどなく、関係ない人に愚痴のように吐き出すか、タイミングをものすごく外して当人に伝えるかなので、言うべきことが言えず、また伝わっていないからに過ぎない。真意が表現されないのに対して、表現行動としてやたらと多いのは「相づちを打つ」ことや「なるほど」などとつぶやくことである。しかしこれもまた言葉通りの行為ではない。彼女の相づちや「なるほど」は、時にコミュニケーションや理解から最も遠い言葉であり、その「遠さ」を相手に伝えないですむための「防御壁」なのである。今彼女は自分で作った「壁」の厚さに手を焼いていて(彼女が「他人」だと認定する人たちはもちろん、「友人」や「家族」というような親しい人たちにも「言葉」が通じなくなってきているので)それでレッスンにきてくれているのだが、まあぼちぼちやっていくしかない。彼女に「壁」を破ろうという意思がある限り、ぼちぼちでも出来ることを確実にサポートしていくしかないのである。
彼女のことは一旦おくとしても、言葉は、その言葉を使う人の真意を「あらわす(あらわにする)」ものとしてだけ機能するものではない。ときにその真意を「隠す」ことをもまた一つのコミュニケーションと呼べなくもないこともある。ただ、それを使う人の中に最低限存在していて欲しいと願うのは、他者への最低限の尊敬の意というか、その人の立場を尊重する態度である。それがある限り、言葉が「表現手段」として使われようと、「防御壁」として使われようと、基本的にはよろしいかなあ・・と思ったりするのである。

私自身は草なぎさんの「ファン」と呼べるほどのものかよくわからないが、彼の魅力は大いに感じている。その魅力というのは、彼が彼に出来る仕事を実に「ふつう」にしておられる故なのかもしれない。それがいわゆる「ファン」ではない私にも「いいなあ」「これからもいい感じでいってほしいなあ」と思わせてくれる理由かもしれない。

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