えこひいき日記

let yourself go

2004.02.10

たしか矢井田瞳さんが『ひとりジェンガ』という曲を作ったときに「この曲はギター弾きの発想の曲。ピアノを弾く人だったらこういう曲にはならなかったと思う」という主旨のコメントを出していたと記憶している。そう思って聴くと「なるほど、そうかも」と思った覚えがある。ピアノの鍵盤の並びとギターの弦の並びでは、そのまま一方向に指を這わせても出てくる音がまるで違う。だから、同じ曲を演奏する場合、楽器が違うと具体的な動作は全く異なることになる。つまり各々の楽器を使う上で自然に指が動いて「演奏しやすい」と感じる音の並びは異なるのである。作曲自体はその人の頭の中に描かれた音を取り出す作業であり、完成した音楽を楽しむのは主に聴覚的な感覚入力によってであろうが、その曲が自分の中から生み出される背景には、自分が「自然」・・・単にeasyという意味ではなく、技巧として可能という意味だけでなく・・・と感じる指の動き、からだの動きがある。それはダンスにもいえることだが、音楽もまた、まさしく「からだ」から創り出される芸術なのである。
やはり「痛い」「しんどい」あるいは「将来の不安」とか「老い」を考えるときにだけ「からだ」を思い出すのではなく、より創造的な観点で「からだ」に触れる方が面白い。教えていても、そりゃ面白い。その人の「からだ」とはその人の「日常のかたち」でもあるのだから。

矢井田さんのことを思い出したのは、ギタリストのクライアントとのレッスンの中で「ギター編曲」の話になったからである。
今年の彼は忙しく、普段の仕事(ギター教師、録音、伴奏)に加えて、それぞれ趣旨の違うリサイタルの予定が既に今年のカレンダーを埋めている。このところは打ち合わせの連続で「からだの使い方のことをまじめに考えている暇がない」と苦笑いするが、このスケジュールの中で体調も壊さず、雑にもならず、むしろ以前よりずっと密に仕事を進めることが可能なのは、目先の心配事として「からだ」に関わるのではなくベーシックに自分にあった「からだの使い方」が身についておられるからだろうと私は思う。「からだの使い方」を教える作業は、まず無意識のそれを自覚化してもらうことから始まるが、同時にそれに呪縛されることを忠実とするものではない。だから特に強く意識的に「からだ」のことを考えなくてもちゃんと危うきを回避できている状況は、とても喜ばしいことだ。
そういえばずっと以前、彼がまだレッスンに来てくれ始めた頃に、リサイタルの楽屋に呼ばれてレッスンを行ったことがあった。そのときの彼は「目先の心配事」にとらわれて、正直レッスンどころではなかった。本人はよりよいコンディションで本番に臨むべく楽屋レッスンを希望したのであり、私もそのつもりでお邪魔したのだが、お互いのその意に反し、そのときの彼は全くもって「心ここにあらず」。筋肉はがちがちで、何とか自分の「からだ」に意識をステイさせようとすればするほど、行動と意識がかい離してしまう。こんな付け焼刃、だめだ、と楽屋を去ったことを覚えている。(ただ、彼の名誉のために言い添えれば、本番の直前まで最高のパフォーマンスをするための努力を「具体的に」しようとするパフォーマーはなかなかいない。大抵はプレッシャーと戦うだけで精一杯になってしまう。直前まで最善のための変更を受け入れて本番をこなせるパフォーマーはそんなにはいない)
それに比べれば驚くほどの違いである。もともと「瞬発系」というか、眼の前に物事が迫ってからぐわーっと仕事を進めてしまう傾向があり(だから暗譜とか、さまざまな雑務などを本番直前にやってしまう、というか、ならないとやらない)、それでできてしまうこともすごいのだが、しかし一方で奇妙なポカミスをやらかしたり、事後はぐったりしてしまったり、集中力の分だけ消耗も大きかったのだが、今はロスがずっとなくなった。以前はこつこつ持続的に行うこと自体がまるで「我慢」や「義務」のような歩みだったが、今はア・テンポの歩みとして、そのリズムにステイできている。
そうした本番までの持続系の作業の一つとして「編曲」がある。コンサートで使う曲の中にはオリジナルのスコアはギター以外の楽器のために書かれていたりする曲もある。既に誰かがギターのための編曲を行っている曲もあるが、他の弦楽器のための編曲はあってもギター・バージョンはないものもあるし、ピアノ編曲のものしかないものもある。以前の彼は、既存のスコア通りに弾くことが「楽曲に忠実な態度」だと思っていたという。多少弾きにくい箇所が合っても、それは自分のテクニックのせいかと思っていたし、「弾きにくい」ことが理由で奏法を変更することはまるで「テクニックがない」といわれているようで「よくないこと」というイメージもあったという。しかしこのところ、レッスンの中で様々なからだの使い方からいろいろな音を出せることがわかってくると、オリジナル・スコアの読み方が変わったという。作曲家の意図が自分なりに見えやすくなり、その意図をいかし、ギターという楽器でそれを表現するにはどのような翻訳(編曲)の可能性があるのか、見え始めたという。それを彼は「ここのレッスンのおかげ」と言ってくれる。教師冥利に尽きることである。嬉しくて楽しいし、レッスンで演奏テクニックをいろいろ試していても飽きない。

「教える」仕事をしていて最も空しいのは、生徒が「学習」という行為を「ものまね」「暗記」として行為することである。自分でものを感じたり、考えたりしない人間とは、私ははっきり言って関わりたくない。出来ている人間のしぐさ(個人のそれでもあるが、例えば名前の権威とか、メソッド、テキストもそれにあたるだろう)をまねて、自分も出来ているように見せかけようとする人間の行為は、それもまた一種の努力ではあろうが、そこに留まるなら単なる虚飾であって、その人の実力にはなりえない。本当に物事を身に付け自分で考えるよりも、とにかく出来ているように見せかけることにいそしむ人間は、大抵権力志向が高く、そのくせ自信がなくて卑屈である。いつも他人と自分を比べていて、他人を見下すことでしか自分の安全を図れないように思い込んでいる。「教師」と「生徒」という立場で実際に顔を合わせると、そのような人間でも笑顔で話し掛けてきて親しげにすりよるが、それはそこに他者への敬意や学ぶ意欲が存在するからではなく、単なる保身の手段に過ぎない。同じ人間が実際に顔を合わせない場合は実に失礼な態度で電話をしてきたり、メールを書いてきたりすることも多い。そういう人間と関わるのは空しい。なるべくお会いしたくない。しかし残念ながら、「教える」などというやくざな仕事をしていると、ある確率でそういう人間にでくわしてしまい、こちら側は事前に選ぶ権利をほとんど持てない。
たまに私はその空しさで吐きそうになる。本当に吐くこともある。それでも、その吐き気がするような出来事が仕事を続ける意欲を凌駕しないのは、幸いにも今の私のワーキング・ライフにおいて、それらくだらない仕事がほんの少数で、クリエイティヴなクライアントとの出会いがそれより多く存在しているからである。あと、まあ、私もプロですから、個人的にはどんなに嫌いな人であっても、その人間が私が提供できるものを必要としている状態だと判断すれば、仕事はさせていただきます。でも、私だってあほで煩わしいもののために生きたくはない。楽しくて素敵なもののために努力したい。そのためだったら、いくらでもがんばる。楽しいもん。

そういえば、別のクライアントとのレッスンで「表現」の話になったことがあった。その方は社交ダンスをしている女性で、非常に元気がよく理知的な人なのだが、理知的なゆえに理屈っぽくなることがあり、理論的にわからないところは全く身体が動かない(踊れない)ことがあるという。それをしてダンス・コーチに「女性らしさが足りない」などと言われてしまうこともあるらしい。女性の身としてその言葉は少々ショックなものだが、それを聞いて私は、ここでいう「女性らしさ」とはセクシュアリティの問題ではない、「表現性」というか、「許可」の問題なのだと思う、という話をした。私自身、理知的で理論はの人間は好きだ。ただしそれにとらわれすぎると、出来ていることよりも、出来ていないことの解明に過剰にエネルギーを注いでしまいそうになることがある。そのあまりに「出来ていること」をきちんと受け止め、行うことに手薄になることがある。ダンス・コーチの言う「女性らしさ」とは「出来ていることには自信を持って、思い切ってやる」ということではないかと思ったのだ。

出来ないことを追及する努力や勉強だけではなく、自分が出来ること、出来ていることをすることを「許可する」感覚は、表現者パフォーマーには欠かせない感覚だと思う。いや、舞台に上るパフォーマーに留まらず、多分、生きていくために必要な力だという気がする。舞台を本当に観に来る人は、その人の「できていないところ」を見に来るわけではなく「できているところ」「みせてくれるもの」を観に来るんだもんね。
自分をlet goさせるために日頃の練習はある。練習とは、付け焼刃でその場のパフォーマンスを「でっちあげる」作業では
く、自分の技術と感受性の信頼度を高めるための、地道で精密な行為なのである。そこには理論があり、理論と実感、自身の感受性をコネクトさせる作業が欠かせない。
そのじみーな行為をちょっと楽しく、確実にする手伝いが出来るなら、私はやはりすごく嬉しい。

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