えこひいき日記

お水取り

2004.03.12

この2日間はクライアント仕事が終わると奈良に通っていた。東大寺の二月堂で行われる「修ニ会(しゅにえ)」、通称「お水取り」の行事の「お松明」を見るためと、博物館で調べ物をするためである。
「お水取り」はほとんど「修ニ会」の呼称となっているが、3月12日(正確には13日の午前1時とか2時くらい)に二月堂のそばにある「若狭井」に到着する「お水(香水)」を受ける儀式をいう。この「お水」は3月2日に福井県小浜市にある神宮寺と鵜の瀬から送られた「水」とされ、「若狭井」にその水が沸くのも3月12日その日だけとされている。「お水を送る」とはいかなる意味があるのか、なんとも不可思議にして魅力的なお話なのだが、これが始められた752年以来絶えることなく行われていることも面白い。
「お松明」は本行中の夜に連日二月堂のテラス部分(?)に大松明を掲げる行事である。「お水取り」の日に行われる11本の「お松明」が有名だが、その前後にも連日行われている。「お松明」の火の粉を浴びるとその一年は無病息災とされ、巨大松明の下にはたくさんの人が集まる。1本の重さが60キロほどもあるという赤々と燃える松明を持って僧がテラスを駆け抜ける様子は勇壮で、暗闇は松明の明かりとそれを見る人たちの歓声で満たされ、もりあがる。なにやらわからないが、火が燃える様を見るのは興奮すると同時に心が洗われる思いがする。

個人的な理由があって今年は是非ともこの行事をこの目で見たくなり、11日は雨の中を「お松明」を観にいった。12日に予想される大混雑を避けてこの日にしたのだが、雨をものともせず大勢の人が1時間も前から二月堂に詰め掛けていた。続々と人がやってくるので、いったんその場に入ると身動きが取れない。それでも雨の中、人々は(私も含まれているんだが)ひたすらに「お松明」が上るのを待つ。雨に冷えた身体も、人の傘の先でつつかれそうになってあちこちで生じていたむっとしそうになるギザギザした空気も、火の粉を上げる大松明の登場で歓声に変わる。雨が降りかかっても皆傘をおろし、火の舞に見入る。すごくシンプルなのだが、すごく面白い。ちなみに、その翌日に博物館で物色していた本の中には、この修ニ会の目的である「悔過(けか)」が後々能や狂言などの芸能を生み出していった歴史の研究をしているものがあったが、そのように変遷していったことがすなおに受け止められるように思う。「お松明」の面白さがどういう魅力なのかを言語化するのはなかなか難しいのだが、言語化できなくても理解は出来る気がする。
水と火とが同居するこの不思議で魅力的な行事は、本来仏(十一面観音)の前で自らの罪過を懺悔して、世の平安を祈る「悔過」にある。なんで「十一面観音」なのか、ということもずっと不思議だったのだが、それは『東大寺お水取り 二月堂修ニ会の記録と研究』(小学館)の中にある中村元氏の文章を読むことでちょっと晴れた。日本のインド哲学では押しも押されぬ第一人者であられた方だそうだが(もうお亡くなりになったけれども)わかりやすい文章で、読み物としても魅力的な一文だ。11とか、33とか、わりとお寺の中には謎の数字がちりばめられているが、それらは世界観の現れであって、全て意味がある。すごく面白い。
2日間の往復の車中では吉野裕子氏の『隠された神々 古代信仰と陰陽五行』を読んでいた。吉野裕子氏の著作は既に何冊か読んでいるが、面白い。このところ、読みたい本は山ほどあるのになかなか時間がとれずにじれることが多いのだが、特急電車のシートは読書にはうってつけである。今回観にいった修ニ会とこの本に記されていることは単純にはつなげられないが、どのような感覚で世界を感じ、向かい合い、その把握していることを体系化しようとしたのか、そのことを考える意味では大いに通じるものがあると思う。
こんな風にして自分の感覚を整理するのは、快感である。

カテゴリー

月別アーカイブ