えこひいき日記

おもいをカタチにするための、それぞれのギジュツ

2004.03.28

日々様々あり、「日記」にもちょっと間があいてしまった。その間にもいっぱいいろんなことがあったのだが、あったことを列挙するとややこしいことになるので、とりあえず最新の出来事を書くことにする。
今日は午後、事務所を抜け出してある座談会に出席した。それは某建築デザイナーとベッド・メーカーと家具デザイナーが出席する「寝る」ことについての座談会で、もの(この場合、ベッド)を創る側の人間がこの行為をどのように認識しているものか、興味があったので参加してみた。
これまでにも経験済みの事柄ではあったのだが、話をしてみると往々として物を作る側、デザイナーのあたまの中には「人間の身体」ないし「動作」が具体的には存在していないことがある。ご多分に漏れず、この会でもそうであった。正直に言って、ちょっと残念。まあ、「寝る」という行為の特徴でもあるのだが、その行為中本人は無意識なので、快適に睡眠が得られている人ほど自分がそのときどうしているのか、何が快眠を作り出しているのかについて無頓着(無意識、無自覚)になりやすいのだ。それゆえにこの行為に対する具体性が無く、表面的な認識に留まりがちなのであろう。加えてデザイナーさんたちは、自分たちは「眠る」という行為の中で苦労をしたことがないとおっしゃっていた。それは彼ら個人にとっては何よりのことだ。しかしそれが彼らからそのデザインに対する感受性の発現や発想の機会をそぐことになり、ユーザーのオーダーにリアリティをもって応じきれていない部分があるすれば、デザイナーとしては残念、といわねばならないかもしれない。例えば、彼らは「寝る」という行為をその現場でだけ考えたりするようだが、私の経験では、良い寝心地を得られない人は昼間の動き方(普段から無意識に力が入りすぎていて、いざ寝ようとしても力が抜けない)に原因があって、そのような場合、マテリアルのレベルとしてはマットレスやベッドのデザインを問うことよりも、むしろ意識状態と身体状況のスムーズな移行を促す仕掛け・・・寝室の照明や、お風呂や、家全体の中の寝室の位置などを問うことの方が有効という気がするのが、どんなもんなんだろう。
ただし提供者(この場合、デザイナーさんとか)にだけ完璧さを求めても仕方がない。ものの良し悪しは、それを創るものと使いこなすもののコラボである。だから、もしもデザインされたものが気に入らないとすれば、それはユーザー側がマテリアルに何を求めているのかを、デザイナーや製造メーカーに伝えきれていない、自分の欲するところや自分の快適を主体的に知らない、というところにも責任があると思う。見かけのよさ以上に、どのような使い心地、使い回しを欲しているのかをデザイナーに伝えきれないから、ただ既成のものを与えられるだけになったり批判するしかなくなっちゃうようにも思う。ユーザー側も「自分のからだ」を知らないことがあるのだ。著作の中にもちょっとだけ書いたが、これまでにも「どの椅子も家具も私に合わない。ろくなものがない」と怒っていたクライアントは、実は自分の「からだの使い方」がよくなくて、優れたプロダクツにめぐり合ってもそれを使いこなせる状況に無かった。そういう場合、デザインと身体のマリアージュは訪れ得ない夢の邂逅に終わるかもしれない。

話を聞きながら思ったのが、マイナスをゼロ・ポイントに押し上げるための努力は誘発しやすくても、悪くないものをさらに良くするための努力というのは、すんごい創造力の要る作業かもしれない、ということだった。困ったら嫌でも動き出すものだが、困らないと努力をしないって、ありがちでしょ。悪くは無いことだけれども、でもそれって結局、欠落を埋めたら終わり、ゼロで終わり、それより上には行かない、ということなのだ。それでよいというひとはそれでいい。でも私はつまらない。
「紺屋の白袴」の例えにもれず、自分のための寝室はいたって簡素でベッドは床にマットレスを直置き、というデザイナーもいらした。それが悪いことだとは思わない。けれども、厳しいようだが自分の快楽に対して積極的でない、というのは創造的態度ではないと思う(もちろん、このデザイナーさんはたまたま寝室に関して層であっただけで、生活全体がそうであるとは限らないのだが)。私は自分の生活設計に関して、マイナス面を補う要素と、良いなと思うところをさらに快適にする分量とのバランスを考えることがあるのだが、後者が極端に乏しい場合はやっぱりつまらないと思うのだ。

とはいえ、私に出来ることといえば、ユーザーとしての自分を磨くことかな、と思う。デザイナーさんに何かをお願いするときに、自分は何を欲しているのか、明確に伝えられるように、よく自分を知ることくらいしかできんな、と思った次第である。デザイナーさんが新しい素材の導入や組み立ての技術、スプリングの開発などに努力するように、私もまたユーザーとして何を欲しているかを感じ取る感受性やそれを伝える技術(例えば言葉?)を磨いていくしかないな、と思った。
それと、自分の仕事に関しては「紺屋の白袴」はやだなあ、と思った。反省も込めてね。私のところにいらっしゃるクライアントさんは、当初どこかを痛めてとか、マイナスを押し上げる意図でいらっしゃることが多いのだが、本来私の仕事は「治療」ではなく、どちらかというと「教育」なわけで、個人の創造性と快適さのために働くべきものだと思っている。だから私自身のために使ったことが、自分個人をちょっと楽しくしてくれて、クライアントさんにも参考にしてもらえるような感じであればいいな、と思ったのだ。ネガティブな例の出し方で申し訳ないが、先日お会いしたあるある治療師は、自分自身の言葉や実感に無いことでも「テキストに書いてあったから」とそれをそのまま口にしたり実行したりして、それを理解しない患者さんには怒りを感じる、と言っていたが、私はそういうのはやだと思ってしまうのだ。そのような「テキスト」の使用は、自分と患者さんのコミュニケーションになるどころか、むしろ患者を「黙らせる」ための権威付け、ディスコミュニケーションの道具になっているに過ぎない。メソッドや概念、あるいはプロダクツなど、ある種の「カタチのあるもの」がそのような道具に成り下がることは、危惧すべきことだと思っている。
そうしたことを自戒しながら、私なりに努力せねば、と思ったのであった。

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