えこひいき日記
おいしい について
2004.03.31
次の本のことをつらつら考えている。今年の冒頭には、全く脳細胞が動かなくなっていたのだが、最近ようやく具体的に考えられるようになってきた。
出版社や編集さんがどういうかは別問題として、私個人の希望としては「お料理の本みたいな感じにしたい」などと思っている。そのココロは、と申しますと、「情報公開の度合い」と「説明とイメージ提供のバランス」、それと「読んでいるだけではだめで、読み手が自分で作る気にならなくては<料理>は目の前に現れない」というところにおいて「料理の本みたいにしたい」と考えている。可能な限りノー・シークレットで(材料や分量を全て公開するお料理レシピのように)、しかしお料理の本に置いて説明文の正確さもさることながら、それを飛び越えてイメージを伝える(料理の場合、おいしそうな料理の写真とか、レイアウトとか)ことにも気を配ってみたい。そして読み手がそれを、まるでテスト前に友達のノートをコピーしただけでもうテスト勉強をしたかのように錯覚する学生のように、本を購入しただけで何かを得たような錯覚をする本ではなく、「これを作って、食べてみたいな」というような、ある種の<食欲>に訴えることが出来る本に出来たら最高だな、と思ったりしている。しかしはてさてどうなることか。
私は食べることに無関心になれる人間を信用していない(と思う)。厳密に言えば、「おいしい」という感覚に対して関心を持てない人間をあまり好きではないのだ。それは先日の「日記」に書いたことともダブるんだが、私は「まずくなけりゃいいや」でいいや、と思えることに飽きやすく、それをつまらないと思うのだと思う。「まずくなければいい」というのはものを生み出す態度ではなく、ものごとを「済ませる」ための態度である。
それにしても「おいしい」という感覚って不思議だ。味覚というのも複雑なものだが、そこからさらに発展して、例えば芸人さんがいうような「おいしい」という言い回しもなかなか深い言葉のような気がするのだ。この「おいしい」も味覚同様、複合的だ。「上手い(巧み)」っていうのもあるがそれだけではないし、「ナイス」であり「ラッキー」であり「ジャスト」であり、瞬間的で、クールで、ちょっと心憎いものだったりする。それでいて記憶に残る。また、「おいしさ」を作り出すことは、それをする者の技術的な努力だけでなく上手く周囲のシチュエーションにはまるというような要素が入っていたりもする。
胸をなでおろして「ほっ。よかった」というのでもなく、「やれやれ」でもなく、人生を揺さぶったりクレイジーにしちゃうような「大感動」でもなく、さりげなく「おいしい」と思える瞬間が日常的にあることが単純に人生を豊にしてくれるように思う。いくら量的に満たされていても「おいしくない」ものばっかり食わされていたら、人間腐ると思う。やさぐれて、とげとげしちゃうと思うな。
「おいしい」といえば、クライアントさんの中でパン作りに凝り始めた人物がいる。これがまた並みの集中力ではないのだ。ご本人いわく100冊以上の本を読み、自分で天然酵母を作り、パンのこね方を研究し、粉や材料の配合を研究し、食品衛生管理師の免許まで取ってしまった。その期間は、多分3,4ヶ月だから、すごい密度とスピードである。どうして急にパン作りなのか、というと「以前からパンが好きだったから」というのもあるが、こちらでレッスンを受けて「ものができあがるプロセス、その必然性」というものを実感できたから、と彼は言う。にわかにつながらない話のように思われるかもしれないが、彼いわく「ここでレッスンを受けるうちに、無理やりに力任せでからだを動かしても実は全くよい結果を生み出さないということがわかってきて、それがパン作りにも共通の要素がある(膨らし粉や添加物を多用しなくてはならないのは、いわば「力ずく」の作業で、ちょっとだけ時間をかけて待ってあげると、粉の味が引き出されたおいしいパンになる)ことに自ずと気がついた」のだそうだ。物理的にも「無理なからだの使い方」をしなくなっていったことが、同じ動作を繰り返しても疲労を蓄積しにくくなり、集中力を楽に維持することに貢献したようだ。また、記事の発行の具合やいつパン生地を焼き始めるべきかなどが、「何分」とか「何度」という外的な目安ではなく体感でわかるようになったとも言う。そういう感覚が喜びでなくてなんだろう。「からだ」のことが直接的な肉体のことだけに留まらず、同じセンスを転用してこのように広がっていくのは、私としても嬉しい。流行のように「スローフード」などといわれているが、たとえそれがよいものであっても、流行としてそれを受け止めるのではなくもっとリアルに自分の中の流れ(必然)としてそれに関われることとでは、一味もニ味も違う。そういう意味でもわくわくする話なのであった。彼は普通の仕事の傍ら現在「家族専属のパン屋」状態になっており、日夜よりおいしいパンの開発にいそしんでいる。私はまだ試食させてもらっていないのだが「先生には、自分の中で納得が出来るものが焼けたら、持って来ます」とやや緊張した面持ちで言われてしまった。むむむ。私もキンチョウ。でも楽しみにしているので、必ず持って気来るよーに。
それにしても、「教師」などというやくざな仕事をしていると本当にいろいろといただき物をすることが多いのだが、食べ物のいただき物をしても私のところに来てくださるクライアントさんはみんなセンスがいいので嬉しい。こんな比較をするのもなんだが、例えば「ポットラックパーティー」(参加者が一人一品ずつ料理を持ち寄るパーティー)などに参加した際にがっかりすることがしばしばあるのだ。同じ料理を何人もの人が持ってきたり、しかもそれがあんまりおいしくなくて、どう考えてもその辺のスーパーで慌てて思い出して購入したような「間に合わせ」な感じ満載だったりするのである。打ち合わせもなく各々が持ち寄るのだから仕方がない・・・とも言えるのだが、不思議なことに、打ち合わせなど無くても見事にバラエティーに富んだおいしい料理が持ち寄られることだってある。そういうパーティーは和やかで、場の雰囲気も良い。それは料理のせいもあるだろうが、その会に集う人たちのことを思う一人一人の意識が料理にも場の雰囲気にも反映されてのことだと思う。やはり「おいしい」感覚はさまざまに翻訳されるもんだと思う。
先日も、仕事の事情でこれでレッスンを一区切りしたいというクライアントさんのレッスンがあったのだが、帰り際においしい梅干(4年ものの、すんごい丁寧に作られたやつ)をたっぷり一瓶と、チョコレートを下さった。重いのにわざわざ持ってきてくださったことと、梅干は大好きなのですごく喜んでしまった。それに心のこもったカードもいただき、本当にありがたいのであった。
この梅干やチョコレートや、お菓子などに見合う「おいしい」レッスンを提供できているのなら、教師としてこんなに嬉しいことはない。