えこひいき日記

極私的流行物:その1

2004.04.11

先日はケーキを自棄食いしてしまったが、自棄でもおいしいと感じる自分を健康というべきか、困ったというべきなのか。それにしても食欲は楽しい。ケーキでも春になってくると生のフルーツをふんだんに使ったものがおいしくなってくるが、野菜も生で食べたくなってくる。というわけで、私の最近の流行り物は野菜である。年末から年始にかけて新しいキッチングッズを手に入れたおかげで(業務用ピーラーやコンベクション・オーブン、バーミックスなど)調理の幅も広がって楽で手軽でよい。昨日も夜中に突然サラダが食べたくなって、人参のサラダを作って食べてしまった。ドレッシングはバルサミコ酢を使った。バルサミコを使ったサラダは私の場合、トマトが定番(ブルスケッタを作るのだ)なのだが、生でシュレッドした人参にも合うものだな、などと感心した。
今年は生のハーブ類なども食べてみたりしている。イタリアンで使うようなハーブもそうだが、ベトナム料理やタイ料理もお店で食べなれてきたおかげで、今まで用い方がわからなかったハーブにもなじみが出てきたし、手に入れることも容易くなってきたし、ありがたいことだらけ。先日はペストソース(バジルとオリーブオイルと松の実とチーズで作るイタリアンのソース)を生のバジルをバーミックス(ブレンダー)にかけて作ってみたが、やはりフレッシュなものはおいしい。瓶入りのものを買うとお値段もバカにならないのだが、安売りで生のバジルが手に入ったなら手作りする方がずっとお徳でおいしいと思う。こうなってくると、自宅でハーブ栽培などもしてみたくなってくるのだが、現在の環境ではちょっと無理だろうなあ・・(鳩が食いちぎってしまうからな)。
あと、酢もちょっとしたブームなんですね、私の中で。もともと多分、酸っぱいものは嫌いじゃないのだが(例えば梅干がこの世から消滅したら生きる意欲の何パーセントかを失うと思う。恐らく、大げさではなく。そういえば鍋物のつけダレもポン酢が一番好きかもしれない。でも酢のものをしょっちゅう食べるかというと、そんなことは無い)、最近の極私的ブームは飲用酢である。沖縄の「もろみ黒酢」を頂いたのは昨年半ばだったが、そのとき「けっこういけるじゃん」と思ったことがきっかけだった。それ以来、毎日欠かさずというほど熱心ではないものの、疲れたときには思い出したように時々飲みたくなっていた。最近では飲用酢専門店も出来るくらいポピュラーになってきたようだが、そういう店に置いてあるお酢は果汁やはちみつがブレンドされていて、ジュースのように飲みやすく、ちょっと驚いてしまうほどだ。「お酢が体に良い」と飲用酢が出始めた頃にもはちみつや果汁をブレンドしたものは売られていたりレシピが公表されていたが、最近の物は本当に洗練されていて、おそらくストレートの飲用酢が苦手な方でも大丈夫なのではないだろうか。開発した方、えらいなあと思う。先日も、疲れが溜まっていたクライアントさんに試しに少し飲んでいただいたが、「おいしい」とおっしゃっていたし、やはりけっこういけるんじゃないかと思う。

野菜だの、お酢だのと書くと、まるで健康オタクみたいだな、とわれながら思う。そうでなくてもこんな職業をしていると、私は「健康オタク」なんじゃないかという先入観を抱かれることがある。一番ひどかったのは、アメリカから帰国するすこし前くらいに某心理学会に呼ばれて出席したときの経験で、ジーンズにヒールシューズをはいて、仕事の後にコーヒーとプリンを食べていたら驚愕された、というものだったかしら。こういう仕事(?)をしている人間は、化粧気がなくて、ぺたんこの靴を履き、無添加無農薬の自然食品しか口にしないと思っていたようである。あほか。そういうのって、眼の前の人間をみるセンスじゃなくって、設定されたコードを確認したいセンスだよね。
それに私はそれほど禁欲的な人間ではないもーん。基本的に、したいことをしているだけだもーん。ちなみに食事に関しては現在クライアントに神経性摂食障害の方がいることもあって、自分が「ふつうに」いつ何をどのくらい食べているのか記録してみているのだが(「ふつう」というやつがいかに見えにくいものであるかは、職業柄重々承知しているのだが、特に特殊な状況の方に接触してそれを「ふつう」にする手助けをする場合には、まず自分の「ふつう」が何たるものか知るのは必要なことだと思ったし)、けして「厚生労働省推薦」みたいな食事のとり方をしているわけではないことが改めて明らかになっている。しかしそれで体重が減りも増えもせず、ある程度の健康状態を恒常化できているのは、リズムに乗れているからだと自負している。私の場合、睡眠時間もそうなのだがある期間で総睡眠時間を合計するとほぼ一定、というリズムが自然と出来上がっているようなのである。自分にふさわしいリズムを刻めるかが「健康」であって、そいつは「管理」するものではない。野菜だって、お酢だって、いかにも「健康そう」なイメージではあるが、だから食べているわけではなく欲しいから食べているのであって、食べたくないときは単純に摂取しない。それは理念やプログラムで制御してそうしたりしなかったりしているのではないし、「食べない」ということは「嫌いになった」とかいうことでもない。これまた先入観を呼びそうな表現になっちゃうが、自分自身というやつに聞いて、からだに聞いて、そうしたいことをしているだけである。その「聞き取り」ができることが「リズムに乗れている」ということなんだと思っている。そういうやり方を採用して、そんなに後悔しない人生を歩めていることは、ほとんど感謝すべき幸福かもしれない。

欲望を所有することは自己責任を持つということである。自身の行動原理が「こうしたい」ではなく、「こうしなければならない」「こうであってはならない」などの不安に根ざすものであるほど、その行為は不自然なものになっていくような気がする。例えば、個人的には「自然」とか「健康」をまるで何かの宗教に入信したような感じにならなければ考えられない「特殊事項」にしてしまう必要もないと思っているのだが、自分自身の行動に最低限の自己信頼がおけないと、どうしても自分を縛るものが欲しくなってしまうような気はしている。縛られる感覚が強ければ強いほど充実しているように感じてしまったりする。そういう感覚が、例えば「自然食」でいうとその行為の必然性において「不自然食」にしているような気がする。「特殊化」することが「意識化」することと直結し、唯一の認知手段になっちゃっている人たちがいるということは、私なりに仕事を通して知っている。拘束されて守られることは不安からその人を少しだけ救うかもしれないが、幸福からはちょっと遠い。でも特殊モードでしか「自然」や「健康」に関われない人がいるとすれば、それは多分そういう「人生」ないし「時期」なのであって、仕方がないのだと思う。もっと望ましいかかわり方があるとは思うが、最悪というわけではないのだから、本人が望みもしないのに他人の私がとやかく言うことではない。味覚が人それぞれであるように、幸福感というのも実に様々なんだろうと思うので。

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