えこひいき日記

キツネ色

2004.06.02

最近動物の話が多いのだが、鳩がまた卵を産んだ。なんとゆーペースであろう。先日のヒナたちがひとり立ちするや否や、親鳩はまたベランダに卵を産んだ。なぜか最初、いつも巣にしているベランダの一角とは反対側に一個だけ卵を産んだ。これが5月31日。なぜコンクリートの床に唐突に卵を産んだのかわからないが、それからいつもの場所にも一個卵を産んだ。その後どうするのかと思っていたが、結局いつもの場所に合計2個の卵を産んで温め始めた。反対側の卵は方って置かれ、挙句の果てに割ろうとするのでこっちで拾い上げた。卵には既につつかれた跡があり、何ヶ所かへこんだりひびが入っていたりした。しょうがないので中身を出して、殻を保存することにした。しかしなぜ卵を産み捨てるように産んだのか、謎である。以前、鳩のヒナがカラスに襲われたショックで、親鳩が卵を産んで、それを放置したということがあったが、今回は鳩にとってショックなことが会ったとも思えないので、謎なのである。

ところで「キツネ色」という言葉がある。「キツネ色になるまでよく炒めてください」とか「キツネ色にこんがりと色ずくまで焼き上げる」など、料理の過程でそのように使うことが多いのではないだろうか。だから「キツネ色」と聞くと「香ばしくて、おいしそう」という連想(感覚?)が素直に出てくるが、しかし、まてよ、と思ってしまったのである。「キツネ色」は「おいしそう」だが、「キツネ の 色」を見て「おいしそう」とは思わないよな、と。「キツネ色」は「キツネ」の体毛の色だったから「キツネ色」といわれるようになったのだと思うのだが、今や「狐」と「キツネ色」はほぼ無関係の関係かもしれない、と。「キツネ(狐)」を見たときの感覚や体感は狐の一部としてその体毛の色を捕らえるであろうが、「キツネ色」という概念をもった人間が狐を見て、その色と「キツネ色」とはダイレクトに結びつかないのではないだろうか。「キツネ色」の概念を保有する人間にとってもはや「狐」と「キツネ色」とは別のものとしてイメージの中に定着している。
そんなことを思ったのは、先日亡くなったアレックスの体毛が色の名前で言うと「キツネ色」だったせいかもしれない。色の名称として聞けば普通なのだが「犬の色」が「キツネ色」というのになーんか妙な感じがしてしまったのだ。その後、全然別の話題で「いたち」が出てきたことがあった。「いたちの色」にも「キツネ色」が入っているなあ・・・などと考えているとますますおかしくなってしまったのだった。
先月も仙台に要ったときに、飛行機の上から見える海を見ながら思ったことがあった。海と波の関係についてである。よく晴れた日で、白い波頭が海の上に見えていた。一つの波頭を目で追っていくと、その波はどんどん形を変え、やがて消えてしまう。どの波も、同じ形を留めることはない。同じ場所に留まることもない。しかしさっき波頭を発見したその場所にはまた新たな白い波が生まれ、そしてまた留まることなく動いて、姿を消す。そのめまぐるしい動きに気をとられすぎると、「波」が見えて「海」はみえていない自分に気がついたりする。「波」は、海の水が風や引力を受けて生まれる作用に過ぎないのに。「波」という言葉をして知っている人間は「そういうものが物質として存在する」ように勘違いしてしまいそうになる。ときに「海」と別の物質として「波」が存在するかのように勘違いしてしまいそうになる。波という存在は在るが、物質はない。
そんなことをぞっとするくらいのリアリティをもって感じることがある。年々そういうのは、強まってくるなあ。

あるものの一部分が、その本体を離れて独自の存在感やイメージを形成する・・・とうのはよくあることだと思う。そのような現象を「ひとりあるき」と言うときもあれば「発展」とか「派生」「独立」という場合もあろう。これもまた、どのような言葉を使うかで事態の印象が変わる。その言葉を使うものが自分の表現として言語の使い方を選んでいれば素晴らしいが、何に対してどのような言葉を使うかが自動化していると、言葉はそれをもって言い表したいものからどんどん遠くなってしまうだろう。それは言葉に限らず、ダンスのステップとか、絵画の筆ずかいや色選び、俳優の台詞回しなど、あらゆる人間の身振りにいえることだろう。「こういうふうにいうもの」などと自動化した見方ややり方は、世界に興味のない人には安心感をもたらすだろうが、興味なくない人間には窒息感に感じられたりすると思う。私は最近そういうことがとても気になるし、これまでよりもリアルにものごとの接近と隔たりとを感じる。

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