えこひいき日記

Alexの死

2004.05.30

昨日、いとこ(と叔母)の家のゴールデンレトリバー(犬)のアレックスが死んだ。もうすぐ12歳の、11歳と11ヵ月半だった。ゴールデンのような大型の犬で、10歳を超えて生きてくれるのは長寿といってよいのかもしれない。事実、10歳に迫る頃から体調を崩すことが多くなった。若い頃は庭で暮らしていたが、それがいつしか屋内に移り、最近ではめったにそとに出なくなっていた。顔の周りの毛も白くなっていった。それでもとても気のいいアレックスは、私が遊びに行くといつも飛び跳ねて迎えてくれるのだった。本当に気のいい、優しい犬だった。
いとこや叔母によると、アレックスの最後はあっけないものだったそうだ。このところ、アレックスの食欲がずいぶん落ちていることは聞いていた。だから最近ではほとんどキッチンの側の自分の場所を動かなくなっていたらしいのだが、それでもトイレは庭の所定の場所まで行ってしていた。ところが昨日は、ごはんも吐いてしまい、ちょっと床にうんちを漏らしていて、自分は外に出ていたのだという。粗相を恥じてそのような行動をすることはよくあるいので、床を掃除した後、アレックスを呼び戻そうとしたら彼はもうその場から動けなくなっていたのだという。慌てて部屋の中の良い場所に寝床を作ってあげて、そこに運び込もうとしたとき、アレックスはもう息をしていなかったそうだ。犬用の介護用オムツも用意していたのに、それを使わぬままの、あっけない最後だった。
12年は、短いようで長い。その期間にアレックスが暮らした家ではいろんなことがあった。それを一区切り分、全部見届けて旅立ったアレックスだった。偶然かもしれないが、ちょうど昨秋結婚し、来年子供を授かる予定のいとこが事務所に遊びに来ているときに訃報が入った。ちょうどアレックスの話をしているときに。それらのタイミングはただ人間の目線で物を見たときのものであり、ただの偶然といえばそうかもしれないが、私にはすごい「引き際」だと思えた。

知らせを受けて駆けつけたとき、アレックスは今の真ん中のしつらえた寝床の中で横たわっていた。がりがりに痩せていたけれど、毛並みがきれいで、穏やかな顔をしていた。その表情は、よく知っているアレックスの記憶の数々を裏切るものではなく、だからこそいつも飛び跳ねて迎えてくれるアレックスが動かずに横たわっているのがどこかちぐはぐなことのように思えてしまった。
そうやってアレックスの遺体を目の前にしても、まだアレックスの死がどこかで信じられないような感じなのは、どうしてなのだろう。涙がいっぱい出て、明確にその死を認識しているのに、どこかでまだ自分の身体にその死がリアリティとしてしみこんできていないような感じ。いつも思うのだが、死は、生きたその最後にやってくるものだから、訃報を受け取った段階ではそのひとの「生」の記憶は様々あっても、死というかたちでの記憶がひとかけらもない。だから目の前の状況に何か決定的なものを感じつつも、どこかでまだリアルじゃないような感じがするのだろうか。ものごとがリアルになるのって、時間が要る。記憶とか体験による肯定を受け取る必要がある。インパクトや衝撃なら、瞬間で感知できるけれども、それはリアリティとはすこし違うものだ。
ちぐはぐな気持ちのまま、私は何度もアレックスの毛並みを撫でた。たくさん泣いてしまったが、アレックスに対しては「ありがとうね」という言葉しか出てこなかった。ほんとに見事な一生だったと思うよ、アレックス。あなたの生と死を見届けられるご縁の人間で、私はよかった。

今朝、アレックスの遺体は業者によって納棺されて、夕方お骨になって戻ってきた。小さな骨壷におさまりきらない骨は別の箱に収められて届けられた。「これが肩甲骨、これは肋骨、大腿骨かな・・・」などと私がいうのを叔母はどこか嬉しそうに聞いてくれた。お骨になっても、そこにみえるのはアレックスなのだった。お骨になっても、アレックスの話が出来ることが何だか嬉しい。秋のお彼岸にその骨は寺に納骨される予定だ。それまではこれまで暮らした家にお骨の姿で留まることになる。

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