えこひいき日記
似て非なるもの
2004.06.14
昨日、母の「最後の」舞台が終わった。母は花柳流の名取りなのだが、特に弟子を取るとか他人を教えるというのではなく、ひたすら自分の趣味で踊ってきた人である。「最後の」というのは、彼女の師匠にあたる方が88歳になられ、師匠が発表の会を開かれるのがこれで最後になりそうだからである。2年に一度ほどとはいえ、祇園の歌舞練場で行う大掛かりな発表の会のために弟子を指導したり様々な差配を振るうことがたいへんになってきたのだそうだ。そうはいうものの、師匠はもう10年前くらいからそんなことをおっしゃっていたのだが、舞台の上ではともかく私生活では杖をついて歩かれるようになり、そんなこともあって「いよいよ最後」という心づもりになったようだ。
会は盛況で、立ち見が出るほど。私は母の本番を観る以外は楽屋についていたのだが、洋舞の舞台と違って、日舞は関わる人間の数が膨大になるせいもあるのだろうが、とにかく楽屋への人の出入りは激しい。次々に届けられるお祝いを整理し、楽屋を訪ねてくださった方にはお土産をお渡しして挨拶をする・・・ということが、本人共々出番直前まで、そして出番の後も続くのである。独特の華やぎがあって、楽しいといえば楽しいのだが、すさまじいといえばすさまじい。正直に言って、なんて金のかかる世界だ!と思う。応援の気持ちやお礼の気持ちをきっちり「物」にして相手に届けたり渡したりお返ししたりするのだから、楽屋を出入りする人の言葉の数がそのまま物量と化して飛び交うのに等しい。実にクレイジーである。
私は普段、日本舞踊よりはいわゆる「ダンス」と呼ばれる踊りと関わることが多いのだが、舞台に出て行くに直前の様子もいわゆる「ダンス」といわゆる「日舞」では違いがあるようだ。「ダンス」では本番前にきりきりとして、しきりに筋肉を伸ばしてウォーミングアップをしたり、せわしなく動く姿をよく見かける。しかし日舞ではせわしないウォーミングアップの光景をあまり見ない。わりと「そのまんま」舞台に出て行く。それがどういうことなのか、判じることは難しい。良いとも悪いとも言い難い。でも日常の動作と、舞の動作との間にある身体的な認識のギャップが、「ダンス」よりもゆるやかなのかもしれないと思ったりする。良し悪しは別として。
しかし所作に対するスタンスに大きな落差がないことが、そのまま踊り手の精神状態というか、その所作における表現に大きな差をもたらさないかというと、そうではないように思う。少なくとも我が母親を見る限り、そう思う。誤解をまねく言い方かもしれないが、舞台の上の我が母は日常のシーンのどこで見かける母よりも「正気」で、「冴えている」。別に普段の状態が「正気ではない」わけではないが、彼女は日常生活の中では人並み(よりちょっと多め?)に「認識と行動のギャップ」(やっていることと、やっていると思っていることが違っていたりする)が存在する人間なのだ。まあ、ある年齢の女性には良くあることだが、自分のわかっていることを言語化する手間を著しく省いてしまったりして「ほら、あれが、それでね・・・」などという言い方をしてしまったりして、自分が思っていることが相手に伝わらないことにじれてみたり、思いつくといろんなことを一気にやろうとして焦ってしまったりと、そうやってばたばたする母を日常的に見かけることは少なくない。
ある種の過大表現かもしれないが「認識と行動のギャップ」が限りなくないに等しい状態を「正気」と呼ばせてもらうなら、舞台の上の母はそれ以外のどこで見る母よりも冴え冴えと「正気」であるように見える。もちろん技術的に不足なところはままあろう。しかし舞台の場を単に技術の披露の場とするのではなく、自分の「場」として立つ姿は、すごいものだな、と思った。「踊りだけは、ずっとやってきた」と大事そうにいう母の言葉は「本当」なんだな、と改めて思うのであった。そういうのって、人間として尊敬できると思う。変な言い方かもしれないが、私の母が「私の母」というだけの存在ではなく、自分の世界を持てる人間であることが、娘としても嬉しい。と娘という関係で生まれつく限り、それ以外のモードで母という人間を見ることは難しいことが多いのだが、こうした機会に恵まれることを心から幸福に思う。普段のどたどたもこれで「許そう!」と思えるくらい、そう思う。
実は母は出だしでちょっとミスをしてしまった。花道から登場する踊りだったのだが、そこでちょっとぐらついてしまったのだ。見ていて私も思わず「あちゃー」と思ったが、その後の踊りはよかった。楽屋に戻ると母は、出だしの失敗を「ああー、おちこむー」と言って悔やんでいた。「でも、その後の踊りはよかったじゃない」というと「当然や。楽しく踊ってんのやから」とさっぱり言ってのけた。そのさばさばした言い方に、常々「舞台の上は楽しい」と言っているのが彼女の「正気」ゆえの本当のことだと、思ったのであった。
こうしたものの見方には、私の職業が影響しているのかもしれない。しかし偽りでは手加減でもなく、私はこう思う。私の経験する限り、人間の動作は本人がsureであればあるほど冴える。どんなに小さな所作でも、きちんと観る者の注意を捕らえ、届く。20分ほどの母の舞は、舞台に立って緊張もせず、人に良く見せようという欲もなく、ただひたすら己に忠実に愉しんでいるように思えて、小気味がよいのであった。
そう考えると舞の所作の決まりごと、型や振り付けとは、よく出来たものかもしれない、と思うのであった。ある部分、強制的に人の行動と認識を一致させる方向にチューニングする作用もあるのかもしれない。しかしやはりわけもわからず「形だけ」やってもだめで、その動作を主体的に捉える努力を欠かすことは出来ないだろう。
ある程度キャリアをつむと、「主体的に考える」などということをいちいちしなくても、表面的には「できてしまう」状態になることができる。しかしその状況に甘んじることは、自分の成長を止めることをも意味する。人前に出るたびに「できる」自分を演じて格好をつけるようになり、「できない」ことがむやみに怖くなる。そうやって自分で自分の息の根を止めていく。そういう「自称・表現者」を私はたくさん見てきた。(実は、先日の「BRIDGE」のワークショップでもそういう参加者がいた。自分は「表現者だ」という自負もプライドがあり、表面的には意欲的に参加しているように見えるが、実はプライドが全部「壁(ディフェンス)」になってしまって、本当に自分のできることを表出できないでいる。そしてそういう自分に自分でじれているのだ。)もちろん、成長などしなくても人は生きてはいける。少なくとも急に今以上に下手になることはないのだから、そんなに心配しなくてもよいことかもしれない。それに何より、本人がそれでいいというのなら、私が何も口を出すことはない。少なくとも今の時点では。本人が気がついてトライしてみる気になるまで、私は悔しいくらい無力だ。
他人様のことは置くとして、私自身も自分の持てる技術に溺れる人間にはなりたくない。持てる技術に人格を則られるようなことにはなりたくないな、と思うのであった。私は私なりに持てる技術の生かし方を、自分の人生の愉しみ方を、模索していくだけである。