えこひいき日記

身体の軌跡

2004.06.28

芸術センターでのワークショップも終わり、その後4日間クライアントをみない「休暇」をとり、通常の業務に復帰して1週間が過ぎ・・・と瞬く間に時間がたってしまった。瞬く間に時間が過ぎる割に、内容は濃いなあ。いろんなことがある。そのいちいちを列挙すると膨大になるので書かないけれど、しかし飽きない人生である。

最近、ある出版社の編集者から連絡をいただき、8月半ばに刊行される雑誌に一つ原稿を書くことになった。昨年発売された書下ろしを読んでくれて連絡を下さったのだが、その際に「自分の言葉で書いていらっしゃると思った」と言ってくださったのがとても嬉しかった。単なる説明の手段として言語に寄りかかるのではなく、自分なりの体験やリアリティをアウトプットする媒体として言語を用いられるよう努力しよう!というのは私なりに留意していたことだったので、とても嬉しかったのだ。やーな言い方になるが、自分の身から出た言葉ではなく、どこかの誰か(大抵、有名人だったり権威者だったりする誰か)の言葉をつぎはぎして、単に紙面の空白を言葉で塞ぐような、そして他人の権威に寄りかかった空威張りで胸を張るような下品な文章は書きたくないと思った。ある特定の概念がメソッド化されてしまうと陥りがちなことだが、それに携わるものがいわゆる「用語」や「定番フレーズ」で時間を埋めてしまえば、なんかやっているような体裁にはなるので、それに逃げ込む手合いも少なくないが、そんなん、時間の無駄に過ぎないと思う。あくまで私なりにではあるが、可能な限り、しゃべり言葉においても自分が納得しない言葉は使いたくないと思ってレッスンをしているが、それは書き言葉に置いても同様である。
ともあれそんなわけで仕事を一個増やしてしまった。最近、まじめにハードワークで、今日だってしんどいクライアントが続いちゃって、まじめにへとへとなのだが、でもこれは書きたくて書くので、自分でも楽しみなのである。がんばってみよう。

以前にも書いたようなことかもしれないが、その人の筋肉の状態、骨格(関節)の状況というのは、そのままその人の身体認識の履歴だなあ、と思うことがある。さらにいえば、そのような身体に物理的に触れ、問う行為は、その身体認識に基づいて歩んできたその人の人生をリアルに垣間見ることでもある。筋肉の形や状況に、その人の考えていることや、やってきたことが刻み込まれているものなあ。
表現を間違えるとただのオカルト話になりそうだが、以前、アメリカでの研修時代に「他人の体と自分の体のみわけがつかなくなる」という現象に見舞われたことがある。手で相手の体に触れていると、つぶさに相手の身体の状況が見えてしまって(それこそその日に食べてきた食物まで)、怖くなったことがあった。ある感覚を研ぎ澄ませて行くとそうなること自体は不思議ではないことかもしれないが、ユーザー(私)にとって困るのは、その感覚なり状況なりのコントロールの仕方がわからなくなることだ。当時の私はそのスキルが十分ではなかったので、とっても困った。(結果的には、1週間ほど誰に触れず、物体にすら掌では障らずに「自分」をシールドしなおしたら、何に触っても自分の感覚と混同せず感知できるようになったが)
これまた自分の書下ろしにも書いたような話だが、例えばカウンセラーや治療師などという「他者のケアをする」仕事の人間は、その対象者の状況を理解しようとする職業的度努力の過程で「相手に同化する」ような状況を経由したり、経験したりすることがある。それはある程度必要なことではあるが、しかし「いきっぱなし」になることは、けして双方にとって有益ではない。教師及び施術者は常に自分を保って接しなくてはならない。しかも「保つ」方法がけして相手を「排斥する」とか「下に見る」とかいう「遠ざけて保つ」方法に偏るべきではない。しかし一方で、混同した状況(過度に同化した状況)下で「相手を助けられた」と感じるようなことのほとんどは、単なる錯覚に過ぎないといえる。多くの場合、いわば「ミイラ取りがミイラ」になった危機的状況を認識できず、それどころか相手の状況に対し自己憐憫のような感情を抱いてしまった場合に過ぎなかったりするように私は思う。同化してしまえば、自分が今こうむっている危険性や痛みに気付くことの「しんどさ」「おそろしさ」は感じずに済むもんね。でもそれは単に、そういうことに過ぎなかったりするのだ。
最近さらに「対象の状況を身体を通して察する」感覚がリアルに強くなって、それが面白いと思えることもあれば、それがしんどいと思うこともある。こうした仕事に携わるものとして、楽しさとしんどさは不可分のもので、配合は変化しても切り離せないものなのかもな、と思ったりする(相手との過度な同化の危険性も含めて)。仮にそうであるとして、この仕事に携わる私に出来る努力とはどういうものだろうか・・・と思うことがある。「努力」とは、つまり研鑚の方向性ということなのだが。私自身が仕事を楽しむための「努力」、レッスンに来てくれるクライアントさんに楽しんでもらうための「努力」。リアルに物事に向き合うことの、ある種のしんどさや痛みが避け難いものであり、しかしリアルに物事に向き合うことをもその人にとって避けて通れないことだとするならば、その必要性において「避け難い出来事たち」をいかに享受しうるか、ということが、という「努力」である。それを最近真剣に考えることがある。
なかなか答えは出ないけれども。

なんかねー、他人を教えるなんぞというやくざな仕事をしておりますと、どうも自分をえらそうに、「できている」人間のように勘違いしそうな気がして、自分でこわいな、と思うのである。やーな言い方だが、教えるなどという仕事をしているとたいていお会いする人は自分よりかは身体および身体認識がムーバブルではない方々だったりして、そういう年月が重なると、その年毎に新しくお会いする方々と自分の状況の差は広がっていくような感じになり、ついその「差」やら「違い」やらばかりが目に入り、己の身体をまっすぐ見据えることがおろそかになりそうな気がするのだ。それはいわば自分の人生をすこし生きそびれているような、損失だと思う。他人様と比べて多少ましだからといって、どうだというのか。そんなの、くだらない。自分が堂なのか、が大事なのだもの。
だからなるべく真剣に自分自身の身体と向き合う時間をとるというか、そう心がけていこう!と思っている今日この頃である。
ほんとに、仕事しかしないような不真面目な大人になってはいけないのである。(と自分に言い聞かせる)

ほんと、一段落ついたら一ヶ月くらい休んでやるー(って、いまのところ、希望・願望だけども・・)。

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