えこひいき日記

浸透圧

2004.07.07

先日、財布を新調した。新しいお財布を買うならこれ!と決めていた品物があって、それを買いに行ったのだが、迷ったのは色だった。蛇皮をいろいろな色に染めた品なのだが、淡いピンク黄色、柔らかなグリーン、鮮やかなブルーやオレンジなど種類があって、迷った。蛇というハードな素材にやわらかいピンクというのも意外性があってよいかな・・・などと思いながら手にとっていると、店員さんが「そちらのお色ですと、手にとったときの印象が薄まるような気がします。こちらのお色の方がお似合いではないかしら」と鮮やかなオレンジを勧められた。「その財布が自分に似合うか否か」というビジュアルを、考えてみれば考えたことがなかったので、何だか新鮮だった。勧められるままに財布を手にとって鏡の前に立ってみた。すると、言われたように、その財布を開いている姿が絵になるのは、私の場合、ピンクや黄色ではないのであった。「なるほどー」と納得し、オレンジ色の財布が私のものになった。
しかしながら財布の用途は財布であって、それが何色であろうがどんな素材であろうが、用は足りるであろう。しかし「用が足りるからいいじゃないか」とは思えなかったのはなぜなのだろう・・・と思ったのである。「用が足りるからいいじゃん」の一事においてそれ以上のことを追求しない人生、似合わないものでも平気でもつようになる人生は、その人生を送る人にどんな影響を与えるものなのだろうか・・・などと思ってしまったのであった。

本人のつもりがどうであれ、身にまとうもの、所持するものがその人の人格をあらわにもし、隠しもするということは、何も私が言い出したことではなく、既に多くの人にとって語られていることである。
動作も同じかもしれない。ただ美しい動きに憧れるだけでは主体的ではない。それが自分に似合うかどうか、どう着こなすか・・・というような、主体的な視点で向き合わなくてはならない。そうでなければ、どのように見かけとして美しい動きも、高度なテクニックも、ただの「お仕着せ」に過ぎない、その人のパーソナリティーを覆い隠すものに過ぎなくなるだろう。ブランド品で武装してその下の「自分」が何者か見えなくなるように覆い隠す人間のように、あるいは無関心を装ってパーソナリティーの表出を避ける人のように、自分自身の動作をどこかで聞いたようなマニュアルや、「皆さん、こうしていらっしゃるみたいだから・・」というような責任転嫁で覆い隠してしまうような人間の動きは、害にはならないかもしれないけれど、美しいとはいえないだろうと思う。
日々の身体の動きもそうだが、身の回りにある物達が自分に与える影響というのは、意外と小さくないのかもしれない。

身にまとうものは、その他人を隠すものなのか、表すものなのか・・・そんなことを改めて考えたのは先日、あるクライアントのダンス公演を観たからである。先日私が名古屋で仕事中に大阪で行われたパフォーマンスだったのだが、名古屋の仕事が終わり次第ダッシュで駆けつけて観せてもらった。早朝京都から名古屋に行ってワークショップをし、その脚でまた大阪に向かって、翌日のワークショップのためにまた名古屋に戻るなんてバカなスケジュールなのだが、でもそのバカをやった甲斐のあると思える舞台であった。
言い方を間違えると問題発言だが、このダンサーK氏はいいカラダをしている。「いい体」というと筋肉があからさまについた体型を指す言葉のようだが、彼の身体はそういう意味でマッチョなわけではない。それどころかここ数年で彼の体からは無駄な筋肉が随分消えた。しかしそれで貧相になるのではなく、存在感のある肉体を持っているというのは、ダンサーとして素晴らしいことだろう。胸郭に立体感があり、それに程よいバランスの手足の長さが備わった彼の体型は、天与のギフトかもしれない。通俗的には「日本人離れした」と表現されそうなカラダかもしれない。しかし「日本人的ではない」ことがこの場合、誉めるポイントではない。彼が誇るべきなのは、その用い方を彼自身の意思で創り出しつつあることである。高いダンス・テクニックも、持ち前の体力や筋力も、立体感を備えた肉体も、それをどのように使いたいのかが決められなければ、表現者にとってそれらは内面からの表出を阻むただの「殻」のようなものである。「殻」に阻まれて観客の目には彼の姿が見えなくなってしまう。彼の姿より「殻」の方が目立ってしまう。それはいわゆる「ぼろを出したくない」ダンサーには味方になってくれることかもしれない。しかしカタチもなくその身の内にある何かを内臓をさらすがごとくに形を与えて表出したいと思う表現者には、自らの「殻」を「敵」に回すのではなく、「殻」をも自身のものとする作業が必要で、それが並大抵のことではないことは私なりにわかる。
余分な筋肉が姿を消した彼のカラダは、以前よりずっと彼に似合っていると思う。強さと同時に存在するどうしようもない弱さというか、儚さ、繊細さを覗かせるようになった。それを覗かせることが、観客を驚かすに留まるインパクトを伴うのではなく、ごく自然なかたちで見えるようになったと思う。持ち前の肉体に「似合う・似合わない」などという言葉を使うのはおかしいのかもしれないが、しかし肉体が存在しているだけでその人間の身体性やその肉体を所有する人間の内面が「みえる」ほど自動的なものではないこともまた事実であろう。表現者とは、その肉体に、そのしぐさに、内面を表出させる浸透圧を備えなくてはならない。「殻」が外界と内界を阻み、どちらかだけを守る役割に留まるのではなく、その間を行き来する呼吸のようなものを供える必要がある。彼の圧力は何だか今良い具合だと思う。
これは今回の舞台ではなかったが、以前彼が上半身裸でスカートをまとって踊ったことがあった。男性がスカートをはくと、どうしても見慣れなさというか、異様さというか、いわゆる女装をしているようなインパクトが先にたちがちなのだが、彼においてはそれがなく、むしろそのような衣装を身につけることによってより自然に彼の中の脆いほどの繊細さが表立ってくることがとても新鮮であった。今回の作品ではスカートではなかったが、すそにレースのついた白いパンツスタイル(後で聞いたら、それは某有名ブランドの女性ものだった。よく入ったなー、と思ったが、それはともかく)になるシーンがあって、とても似合っていた。「似合っていた」といっても、例えばそれで街に出たらやっぱり異様だと思うのだが、舞台という空間において見えざる何かをさらすのにその衣装はとても彼に似合っていた。そのような衣装1点にしても、けしていいかげんに選んだのではないことがわかるし、一点の衣装に心を砕くだけの意味というか価値があるのだなあ・・・と彼の舞台を見て思ったのであった。
そういうことに細かくかまける人生を送りたいものである。

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