えこひいき日記

2004年12月14日のえこひいき日記

2004.12.14

気がついたら12月も半ばにさしかかろうとしている。なんてこった。何で忙しいのか分からないのだが、妙に忙しい。メイルの返信やら、企画やらのお返事をお待たせしている方には申し訳ない。(こんなとこであやまっても、なんだけれども)

ばたばたしつつも適当に楽しいことはやっております。先週はかなり歌舞伎の週でした。月曜には南座に顔見世を観にいって海老様の『助六』に悩んでしまい「いい演技って、なんなんだろ・・・」とくらくらする頭を引きずったまま、金曜日にはチャリティーの夕食会で片岡仁左衛門さんの話を聞いていた(今日の夕方テレビをつけたらNHKの某番組に仁左衛門さんが出演していらっしゃるところに出くわした。夕食会と同じお話をされておりましたわ)。そこでもいろんなことを考えてしまった。お芝居は、リアルな夢をみているような世界だけれども、それを支える世界はなかなか世知辛くリアルだ。伝統芸能として安泰のように見られがちな歌舞伎も、けして例外ではない。よいお芝居とを支えていく事情は甘くはない。「京都では若手の歌舞伎の舞台をうてない」という彼のお話などは、以外でもあり、少なからずショックであった。草でなくとも東京と関西では歌舞伎の上演回数が全く違うのだ。その現実は意外と重い。
伝統芸能であればこその苦労もあると思う。守らねばならないものがある反面、守るだけでは古臭いと言われてしまう。すると客が離れてしまう。保守的なファンは残るかもしれないが、新しい客はこなくなる。それはそのまま歌舞伎という芝居の死や枯渇を意味する。
歌舞伎に限ったものではないが、いわゆるクラシック(音楽でもバレエなどでも)に触れるときに、それを行う意味について考えることがある。既に何百回も上演され、自分以外の名手が何度も行っているその作品を今「私(その演技者本人)」が行う意味はどこにあるのか・・・という問題である。その一方で、古典は一人の人間が作りあげたものではなく(たとえそれが作曲家などの「作者」であったとしても)、作品に関わるそれぞれの個人に一回一回命を吹き込まれてきたからこそ古典は古典となってきたともいえる。古典や伝統芸能の魅力を考えるときに、私はこの問題にこだわらざるを得なくなる。
それにしても仁左衛門さん、すてきだった。私よりもっとコアな仁左衛門ファンはたくさんいらっしゃるのでおこがましい言いようで申し訳ないが、彼の演技で失望したことは一度もない。舞踊をみても素敵だし、悪役をやっても、遊び人でどうしようもないような男の役をやっても、彼の演技の中にはどこか人間の切実なところが覘くように思う。「切実」なんてことは、セリフも、振り付けも、きめられた台本にはないのだが、その決まりごとになっていないものがきちんとその身体から漏れ出るというのは、なんて素敵なことだろうと思うのだ。本当に奇跡のようなことだと思う。

昨日は昨日で大阪の某カフェでお芝居を観た。カフェというシチュエーションをまるごと取り入れたお芝居である。まるで隣のテーブルに座った人の話を覗き見しているような感じのお芝居。
阪急電車に乗って京都について、まっすぐ事務所に帰るつもりだったのだが、ちょっと「呼ばれている」ような気がして、行きつけのバーに立ち寄った。ここにはそんな感じで立ち寄ることが多い。そしてマスターに「ほんとうにタイムリーに来ますよね」と言われる。私には何となくそういう「勘」みたいなものがあって、良いのか悪いのか、年々冴えてきているような気がしてしまう。先日も某劇場を通りかかったときに劇場のスタッフのH嬢がそこにいるような気がして挨拶に入ったら、やっぱり会えた。彼女は外に出ていることが多くていつもいるとは限らないのだが(そのときも別の劇場に出向中なのが、たまたま事務所に帰ってきたところを会えたのだった)、でもそういうことって、分かるときには疑いようもなく分かってしまうことだと思う。だから「タイムリー」なんて「当然」だと思うのだが、「当然」でもタイムリーなことって嬉しい。
嬉しかったといえば、さらに嬉しかったことは、思いがけず着物の着こなしを誉められたことだ。最近の私は着物づいていて、普段着でせっせと着物を着ている。最近ではなんとjか20分くらいで着替えられるようになった(手強い帯もあるので、もっとかかることもあるけれど)。その店のマスターも、そこに居合わせたお客さんも、いわば着物のプロの人たちだったので、誉めていただけるなんてほんとに驚いてしまった。わーい、がんばろー。

着物を着始めて私の中で変わったことは、これまでよりずっと「色」が見え始めたことである。すっと以前の「日記」にも書いたことだが、どちらかといえば、私は色彩よりフォルムを見る人間なのである。視覚的に色彩が認識できないわけではないが、自分が認識する「もの」のプライオリティーはどちらかといえば「かたち」が優位であった。しかし着物の美的感覚はフォルムのみならず「色」が結構重要なのだと、分かってきた。帯と着物の組み合わせ、帯揚げと帯締めとの組み合わせを考えるときに、それぞれの(帯や着物の柄なども含めた)「かたち」を任じるよりも、色の集合体としてのそれぞれの「かたち」ととられえた方が、「合わせる」という感覚がわかりやすくなるような気がしたのだ。それにしてもなかなか難しい。そして楽しいものである。がんばろー。

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