えこひいき日記

2004年12月1日のえこひいき日記

2004.12.01

ついに12月である。
11月は「原稿執筆月間」と称してレッスンを制限したのであるが、時間に余裕ができることなどなく(ゆえに11月の「えこひいき日記」も15日以降、加筆更新する暇もなく)、忙しく過ぎてしまった。何ということであろう。忙しくて、幾つかのクライアントの公演も「行く」と言っていながらいけない有様であった。申し訳ない。原稿も、目に見えた前進は今のところない。でもすこし時間をかけて悩めたところも合ったので、その点はよかったかと思う。日々のことにかまけていると悩むことさえ保留されてしまう。

「読書」というのも私の個人的な歓びの一つであるのだか、このところ、これにもあまり時間をかける暇がなかった。11月中とてそんなに時間があったわけではないのだが、それでもいつもより「仕事以外」の本に目を向ける暇ができて、それはやはり嬉しいことだ。
例えば、萩原朔太郎の『猫町』は、夜中に一人で声を出して読んでいて、面白かった。最初は黙読していたのだが、文のリズム感といい、声に出して読んでみたくなる本である。ただ夜中に声を出して呼んでいると、喉が渇いちゃうし、ある種の興奮状態になるので、しばらく眠れなかったりするのだが。
猫関係の本では、最近仙台に出張したときに現地の本屋で購入してしまった町田康の『猫にかまけて』も面白い。この方の文体が面白い。古風、かと思いきや、そうとだけは言い切れない独特のリズム感があって、こちらも文章に「声」というか、何か紙面に印刷された文字に留まらないものを感じたりする。素敵な文章というのは、それがただ文字や文章として意味を成立させている以上の広がりを読む者に与えてくれるものだが、とりわけこの方の文章は音とか声とか、そういうものを感じさせる。それは町田さんがロックをなさっていることと関係しているのだろうか。関係の程はわからないが、関係を感じても矛盾はしていないように感じる。

文章にはその人の「思考の息の長さ」が現れると、私は感じることがある。一息でどのくらいの思考を紡げるものか、それが文章の流れに表れる。実際に声に出して話す言葉にも同じことが言えるかもしれない。
私が仕事で経験している限り、思考の長さと呼吸の継続性は矛盾しない。この場合の「呼吸」は、いわゆる息の出し入れという意味だけでなく、呼吸を成立させている筋肉全体の動きを指し示すと考えていただきたい。呼吸が妨げられるほどに筋肉を固めている人は継続的な思考や会話が難しいということは、仕事上よくおこることである。こちらが何か言っても「はあ」というような、そっけないほど簡潔な(?)言葉しか返ってこないことはよくあるし(態度が悪いだけとか、言語的なボキャブラリーが極端に少ないという場合もあるが、言語化する体力やルートがないという場合も少なくない)探索や研究、観察や検討というプロセスにステイする体力がなくて、やたらと結論や理由付けを急ぎたがるなどという場面にもよく出くわす。あるいは、傍目には長い会話が成立しているように見える状況でも、一つの話題で深めるという作業が出来ず、思考が短いサイクルでくるくると切り替わり、目先の話を細切れにし続けているに過ぎないなどということも、けっこうある。当然ながら、そういうのって、面白くはないです。
どのようなからだの使い方をしているかは、そのような経験を重ねているという意味で、思考や性格といわれるものの成立と無関係ではない。そう言う意味では、からだが苦しいから、ゆっくり考えたり、それを言語に映すことが難しいのは道理であろう。しかし、思考は思考の枠内でのみとられられ、からだはからだで隔離されて、双方の関連性についてまじめに考える人は意外と少ないのかもしれない。
だが一方で、からだが思考に、思考が身体に、「翻訳」されてこそ個人の魅力が享受できることは、日常的に経験しているはずなのである。例えばあるアーティストの歌を聞いてファンになり、その人の「歌・以外」の部分・・・写真やインタビュー記事や、生い立ちや、考え方など・・・に興味を持つことが自然であるように(あるいはそうした「歌・以外」のことを知ることがさらに歌の魅力を深めることにつながることが自然なように)。でも(また「でも」だが)、例えば英語を勉強することが英語圏の文化を理解することとは必ずしもつながらずに成立できるように、関連性を切られたカタチで部分的な特徴のみが一人歩きすることもまた可能なのである。どちらが面白いかといえば、私は個人的に前者なのだが、言語や概念によって切り取ることが出来るがゆえに起こりがちである身体の孤独を無視できずにもいる。

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