えこひいき日記

2004年12月17日のえこひいき日記

2004.12.17

「癖」という、うまくいっているときは「才能」とも「個性」ともよばれ、しかしには「なおり難い」「変えられない」(かなり絶望的な意味で)と呼ばれるやっかいなものに関わる仕事をしていると、ある意味悩みは尽きない。私は基本的に「癖」はむやみに「悪者扱い」するべきものではなく、その現実を知って「活かす」ものだと思っている。だからクライアントに何度も同じ注意をしなくてはならなくても、それによって即座に「飽きる」ないし「呆れる」ということはない。一見何度も同じことを繰り返しているに過ぎない中でも、実は徐々にグレードが違ってきたり、質的に、内容的に、より緻密な段階に入っていることがあるからである。むしろ、その繊細な変化に目を凝らし、その変化の場に立ち会えることは喜ばしいことである。その場面だけ切り取ると同じことの繰り返しのように見えても、全体的(思考や発想の広がり、行動パターンや興味の範囲などを総合的に考えると)にはいろいろと可能性が広がって愉しくなっていることも多いのだ。それは純粋に魅力的なことである。
しかし一方で、表面的にはそれと全く同じように行っているようにみえる「くりかえし」が、なんとも絶望的な色合いを帯びることもある。それは相手が自分自身の現実に向き合う姿勢を見せない場合である。ものすごく博愛精神を出してその行為を肯定するとすれば、これは、本当に何かと向かい合えるようになるための「通過地点」なのかもしれない、と思う。とりあえず、カタチだけの「努力」をすることから始まって、いつかこの空しさに気づき、自身との関係性を取り直せることが出来る可能性があるならば、この空しい時間も全く空虚というわけではないのかもしれない。

でも、やっぱり空しいと思ってしまうのは、こうした「馬耳東風」ですら、本人には一種の「努力」であったり「前向き」なことであったりする事だ。少なくともそう思い込もうとすることが多いし、こちらにもそのように言ってくる。こういう人間は基本的に反省や失敗の認知をしようとしない。相手とて「失敗」「反省」という日本語は知っているのでその言語を使用しても会話が滞ることはないが、実感をもっていないことが多いし、その経験をしたことがないことは多い。誰しも大小のミスを犯すものなのに、なぜその実感や経験がないかというと、彼らはたいてい「反省」や「失敗の認知」に伴う一時的な「落ち込み」を激しく拒否しているからである。こういう「落ち込み」とか「悲しみ」「痛み」「しんどさ」「つらさ」というような、いわゆるネガティヴなことを事実以上に「ネガティヴ」だと思っているのである。だからその状況を認めようとしないし、努力してその状況を無視したり、認識から隠蔽しようとしたりする。「隠ぺい工作」や「臭いものに蓋」をする作業も、一種の「努力」ではあるかもしれない。労力は要するもんね。「隠蔽」だけが「努力」だなんて、明日がない。

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