えこひいき日記
2005年6月28日のえこひいき日記
2005.06.28
雨の少ない梅雨である。そろそろ雨が降らないかしら。
先日リュック・ベッソン氏が脚本を書いた『ダニー・ザ・ドッグ』を観にいった。よかった。泣いてしまった。主演のジャット・リーさんについては、このお名前を名乗られる前に『少林寺』という中国映画に出ていらした頃から知っているが、私の中では彼は「アクション俳優」という印象がどうしても強かった。その彼が『レオン』『ニキータ』といった独特の“切ない”作品を創ってきたリュック・ベッソンの脚本をどのように具現化するのか、少々の心配もありつつ、大いに興味があったのであった。でも心配無用。ジェット・リーの身体能力満開、容赦ないファイトシーンの「すさまじさ」と、しかし自分のためにその力を使ったことのない“犬”であるダニーの悲しいような「頼りなさ」をとても上手く表現していたと思う。カメラワークとか、陰武者の使い方もすごい。
この映画の中で私にとって印象的だったことが2つ。
一つは「音」である。音といっても、物音や音楽の音ではなく、どちらかといえば話し言葉の「音」。映画制作者がそれを意図していたのかそうでないのかはわからないが、主要な登場人物がそれぞれ異なる発音の英語をしゃべっていたことがなんだか印象的だった。ダニーの“飼い主”だったマフィアっぽい男はイタリア語なまりの英語、ダニーの身体能力に目をつけ“闇の闘技場”に誘う酷薄そうな男は英国なまりの英語、そして盲目のピアニストでダニーを助ける男性(モーガン・フリーマンさんね)はニューヨークなまりなのだが、しかし彼の引くジャズピアノのような声で英語を話す。そして最初は果たして話せるのかどうかもわからない感じで登場したダニーの英語。大げさに言えば、まるで単音がやがて短いメロディーを形成していくようにしこしずつ増えて連なっていく言葉。身体で表す表現のほかに、この話し言葉がなんとも印象的なキャラクター表現になっているようで、とても印象的だった。
また今回の作品では「家族(必ずしも血縁に因らない)」がテーマになっていると思うのだが、そのテーマを一旦置くとしても、リュック・ベッソン作品にはなんとも“ストレンジャー”にやさしい人たちが登場してきて、じーんとしてしまう。リュック・ベッソン作品には“ストレンジャー”の扱いがとても上手い人たちがしばしば登場する。そしてその人たちの存在がしばしば物語の核になっていく。
“ストレンジャー”というのは、一般的意味としては“異邦人”、つまり国籍や人種などが違う人を指すことばだが、リュック・ベッソン作品の場合、自分と文化(生きている世界、というやつ)が違っていたり自分とは共有し難い過去を持った人間、という意味でとらえたほうがよいかもしれない。自分の“常識”ではにわかには理解し難い“ストレンジャー”に出会ったときに、詰問せず、しかし無関心ではなく、暖かく放っておいてくれる態度が自然に取れる人たちの存在。それだけで私は泣けてきてしまう。
現実にそういう人たちがどのくらい存在するか、あるいはそういう人達によって物語り同様に現実のコトが運ぶかというと、なかなかそういうわけにはいかないかもしれない。特に物語の展開については、これは一つの「御伽噺」と考えた方がむしろ自然かもしれない。しかしながら『ニキータ』や『レオン』が魅力的な物語なのは、それが現実からただ遠い物語だからではない。甘くてきれいなだけの理想ではないけれど、どこかに人間の希望のようなものが封入されているからだと思う。
ところで、先日“ストレンジャー”の扱いが恐ろしく下手な人を見てしまった。この「下手さ」の絶望的なところは、異邦人を“異邦人扱い”しようとして「下手」になってしまったのではなく、むしろある意味“親密”に扱おうと目論んでコミュニケーションの成立し難い断崖絶壁に行き着いてしまっていて、しかもそのことに気がついていないらしい、というところにある。
先日とあるレストランで食事をしていたとき、隣のテーブルに3人の男性が座っていた。いわゆる社用で食事をしている様子。彼らの話を聞くつもりはなかったが、やたら声がでかく、またテーブルの間隔がやや狭かったために、聞こえちゃったのである。
3人の男性のうち、一人は韓国人もしくはアメリカ系韓国人で他の2人は日本人。韓国人と思われる男性は日本語が話せず、日本人の男性は韓国語を解さないのだろう、彼らは英語で話していた。彼らの声が必要以上にでかかったのは、お互いのとって「外国語」であるところの英語での会話ということにもあったのかもしれない。しかし会話といっても、実際のところは、韓国人の男性が一方的に話していた、と言ったほうが正確な描写といえよう。最初はアメリカの風土や人口の話という、とても大の大人がこんなところでする必要があるとは思えない、要するに間を埋めるためのサービストークをしていたらしい彼だったが、いつしか話題は韓国と北朝鮮、韓国と日本の政治の話にまでなっていった様子であった。といっても、そのように話を展開していったのはあくまでも韓国人と思われる男性のほうだけであって、一人の日本人は「はあ、はあ、はあ」と意味不明の相づちを打ち続け、もう一人の日本人はただだまーって中空を観ているのである。遠くからこのテーブルを眺めたなら、なにやら会話が弾み、対話が成立しているように見えるのかもしれない。しかしながら実際には三者の間にはおっそろしいほどの断崖が横たわっているのである。そのことが隣のテーブルにいて、ぷるぷるしちゃうほど気持ち悪かった。
日本人の男性二人から全くリアクションが得られないからかもしれないが、韓国人と思われる男性はどんどんしゃべり続け、話しの内容はかなり一方的な見解をも含み始めた。それでも日本人男性の一人は彼の隣でひたすら「はあ、はあ、はあ、はあ」と言っているのである。私は韓国人男性よりも、この日本人男性に絶望感を深めてしまった。俺だったら(絶望のあまり私の一人称が“俺”になっちゃったわ)たとえ英語が不自由で言語による反論が不可能でも、同意し難いことには相槌をうつのは止めてじーっと相手を見返す、などということをしちゃうと思う。また私が韓国人男性の立場だったら、このような日本人男性の「はあ、はあ」を聞いて「hey, Are you still here?」なんて言ってしまうかもしれない。
しかしながら3人の男性は誰一人として誰に対しても突っ込むことなく、突如として明日の予定の申し合わせなどを少しして、空笑いをしながら店を出て行った。
「なんやあいつら」
彼らが去ったあとに私は思わずつぶやいてしまった。私とテーブルを共にしていてくれた人は「いやー、すごいね」と言いつつ、「でも彼らはコミュニケーションとして、同意以外の意見の述べ方を経験していない人かもしれない」とも言った。彼らは恐らく50代の初めくらい。多分世代的に、相手と異なる意見を述べたり同意以外の態度をとることが事実以上に「よくないこと」「失礼」と教育された人たちであることは想像できる。しかし同時に「世代」が全ての人格を決定する要素となってもよいのか、という気もするのである。
一方でまた、ひょっとしたら彼らはあくまで「ビジネス」で仕方なく食事のテーブルを囲むことになっただけであって、そもそも「コミュニケーション」などというものを成立させる意思はないのかもしれない、とも思う。そうであるならば、彼らの行動はその意思に叶ったものであるともいえよう。まあ、そんなことをしなくてはならないこと自体がしんどいことではあるが。こどもの頃の私だったら泣いちゃうなあ。
実際にこどもの頃に泣いたことがある。ある大人の集まりに連れて行かれて、大人たちが次々に私に挨拶をしてくれはするのだけれども、それは「私」というものに対してでは全くなくて、私の「親」や「祖父」に向けられた“儀礼”というものであることに気が付いたときに、私は「私の存在」を疑って、泣いてしまったことがある。声や顔は私に向けられていても、それは私に対していない。当時の私はそれをどう受け止めてよいのかわからなかった。「私」などという人間は、実はここに存在しないのではないかとすら思った。私は自分が幽霊か透明人間になってしまったような気がして、とても心細くなった。
泣き出した私を見て、家人は「こどものむずがり」と捉えた。「違う!」と心の中で叫んだが、実際には嗚咽以外の何も示すことが出来なかった。4歳当時の私の存在を支えるのに「家族」というのは大きな存在だったが、その家族ですらも、自動的には私の心を理解しないことを私はそのときに知り始めたし、心に在っても言葉にし難いことの苦しさをやはりそのときに知り始めたような気がする。
この身体も、言葉も、自分を偽るためにも偽らないためにも使えることを、今の自分は少し理解している。自分はどのように身体や言葉を使いたいか、と自分に問うてみたときに、なるべくきちんと自分というものを「ばらす」ために使いたい、などと思う。心に思っていることを、ふつふつと生まれいずる意思を、忠実に「ばらす」言葉と身体のルートをもちたいなあ、なんて思うのである。