えこひいき日記

2005年7月8日のえこひいき日記

2005.07.08

先日あるダンス公演を観るために大阪に行った。ぎりぎりの時間に京都を飛び出していたので、うっかりと鞄の中に何か本を入れることを忘れてしまった。
私は活字中毒患者である。
だからといってのべつまなく本を読んでいるわけではない。まあ資料としての本は、机について読む。しかしそのような書見は私の中では「読書」とは呼ばない。「読書」は完全な個人的楽しみのために行う行為である。そのような楽しみの時間を持つには、意外とわざわざ時間を設けるのは大儀なのである。例えば上演時間が決まっている映画や舞台はそのときに合わせるのが常で、それをすごく大儀とは思わない(単に個人的な事情で、この時間じゃなければいいのになあ、とわがままを思うことはあるが)。しかしもしも読書に関して映画のように時間が決められていたらすごく大儀だなあ、と思ってしまう。読書が快楽なのは、なんということはない「すきま」の時間に「そだ、この本読みたいな」という気持ちがはまるこそだと、私は思っている。ひょっとしたらぼーっとテレビを見ていてもよい。コーヒーを飲みに行ってもよい。ちょっとした買い物ぐらいいけるかもしれない。そんなはざまの時間の使い方のひとつに「本を読む」という選択肢が寄り添っていてくれることが、私の歓びである。
大阪に行く電車の中では本がなくてもさほど不自由とは思わなかった。本を持たずに移動することはままあることである。また、夕刻の電車は混んでいて、立ったまま本を読むのに向くシチュエーションでもない。だからそれほどの渇望感も感じずに電車の揺られていた。
しかしながら帰るという段になって、手元に本がないということがまさに「渇望感」として込み上げてきた。喉が乾いたまま飲み物が手に入らない感覚。それは空腹感を耐えるのとはまた違う感じ。読書したいとき日本がない感覚は「空腹感」というより「喉が渇く感じ」に似ている。
幸いJR大阪駅には遅くまで営業している本屋がある。私は迷わずそちらに足を運んだ。
活字中毒者にとって自分に合う本があるか否かが、また問題である。
節操のない中毒症状を起していた頃には、文字通り手当たり次第に読んだこともあった。アメリカにいた頃は日本語自体に飢えを感じて、日本語で書かれた食品の成分表示ラベルまで熱心に読んでしまったこともある。今回のような乗車している間の無聊を慰めるためであれば、適当に雑誌などを買ってもいいのではないかと思ったこともあった。しかし私の経験では、節操のない行動の実りは大変薄い。手当たり次第だの、たいした吟味もしないという、まっとうな読者にあるまじき「手抜き」をして買った本には必ずといっていいほど後悔した。その経験をもって私は「いかな活字中毒といえど、世の中には必ずしも私が読まなくてもよい本が存在する」ことを学んだ。
選り好みがある活字中毒者には勘がいのち。混み合った本棚の間を歩き回りながらいかにすばやく「自分が読むべき本」のありかを嗅ぎ出すかが大切である。中毒者にはタイムリミットがあるのだ。あまり時間をかけすぎると勘が鈍る。時間をかけすぎると、とにかく本を買わねばと焦り始め、その結果勘が鈍って「自分が読みたい本」ではなく「とにかく読める本」を買ってしまう可能性があるのだ。それは後悔への序曲。たいてい「はずれ」である。
いくつか設けてある新刊文庫本の棚を曲がったときに「それ」はあった。実はその棚を曲がる直前までタイムリミットが来そうになっていた。駅前の本屋ということもあって、雑誌、人気作家の文庫、実用書の類は充実しているが、逆にいうとそれ以外の本はほとんどない。うぬーと思っているとなんとなく「いいかんじ」の棚があって、そこに目をやるとその本があったのだ。小澤征良さんの『終わらない夏』。

この本は実は単行本で出たときから気になっていた。小澤征良さんは小澤征爾さんの娘さん。この本は小澤征爾氏がボストン交響楽団を離れ、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の指揮者に就任した年に刊行された本である。本の始まりも、ボストン交響楽団の夏の本拠地であるタングルウッドでの「最後の夏」のシーンから始まる。しかしそれはノスタルジックな回想だけでつづられたものではなく、瑞々しく輝き続ける「今もここに生きている記憶」の物語である。とにかく文章が瑞々しい。タングルウッドという場所を知らない私も思わず引き込まれて読んでしまった。登場人物もみんなユニーク。やっぱりすごいわ、小澤さん・・・
おかげで酒臭いおじさまで満員の最終に近い特急電車の中でも、木々揺れる夏の日差しの下にいるような気分で帰宅した。

大阪で観たダンスの舞台も印象的だったのですが、本のはなしが長くなっちゃったのでまた後日書きます。

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