えこひいき日記

2005年7月19日のえこひいき日記

2005.07.19

あっという間に祇園祭もクライマックス(山鉾巡行)を越えてしまった。今年は日曜日が巡行となり、このあたりの鉾が立ち並ぶ界隈もいつもより一日早い宵宵宵山(巡行前日を「宵山」、前々日を「宵宵山」と京都では呼ぶ。ゆえにこれは3日前の意味)から夕方になると交通規制がされ、歩行者天国になっていたので、連日ものすごい人出。そのような時間帯にレッスンのあるクライアントさんには事前に注意しておいたのだが、しかし予想を越えていたようで、来る方は皆「たいへんでした」とおっしゃっていた。
そんななので、連日の賑わいを目にしていた最中、というかその直前は、「いつもより長いお祭という感じになるかな」と思っていたのだが、終わってみればなんのことはない。愕くほどあっという間。まさに夢のようである。
でも祭りの後は何か爽やかだ。人がどっと集まって、人が去り、それで元に戻るという感じかというと、元通りのようであって少し違う。何かが浄化されたような感じがするのはなぜだろう。

一ヶ月の間に何本ぐらいの映画や舞台を観ることが「多い」のか「少ない」のか、その基準は様々だと思うが、最近は私の中ではよく観ている、という感じがする。本数の問題というよりも、充実度の問題。
ここ一ヶ月で、坂東玉三郎さんの舞踊公演と、ピナ・バウシュの『ネフュス』と、先日「日記」にも書いた映画一本と、クライアントが関係するダンスの公演を2つ(作品数は3つ)観た。展覧会は2つか3つ観にいったかな。
自分が見たくて観に行くものではあるが、観にいったそれが自分にとって「よい」「すてき」「おもしろい」と思える作品であったときの歓びは支払う金額や費やす時間では対価を測りがたい何かがある。すてきな作品に出会えることは単純にして無上の喜びである。その喜びは、ある意味、お祭りのようだと思う。劇場や美術館に足を運ぶ私と私の「日常」との距離は、まさに歩いて(あ、電車やタクシーにも乗りますが、まあ「気軽に」「そんなに大層ではなく」という意味での「歩いて」)いける距離で、けして「遠い」わけではない。しかし日常的な市街の中に突然立ち並ぶ壮麗な山鉾のように、その存在はある意味「異常(常から異なる)」なものである。物理的な距離と日常的な距離のギャップと同居。歩いていける異界としての劇場や美術館。私はその違和感と親和性を愛している。
すてきな作品に出会ったときの感動の仕方(?)も、高校生ぐらいの頃と比較したらずっと「日常の中の異常」的になったかもしれない。なんと言ったらいいのか、昔は「感動する」って、今よりある意味暴力的な感覚で捉えていたかもしれない。いわばインパクトや迫力の側面を多く「感動」と結び付けて捉えていたかと思う。「日常」から比べるなら「異」の部分が際立った「日常の中で異常な」感動だったかもしれない。
けれども今は、もっと細やかな感動があるような気がしていて、そういうのが心地よかったりもする。例えが変かもしれないが、昔の「感動」の感覚がアルコール度数の高い(でもおいしい)焼けるようなお酒の味みたいだったとするならば、今は清流の水を味わう感覚かもしれない。体にしみこんでくる優しい侵食感。やさしいけれど、インパクトは弱くない。意外と強烈。そして侵食を止められない。

そういう意味でいうと先日拝見したNS嬢のダンス作品とJ&Mのダンス作品は秀逸だった。

NS嬢は、とても雰囲気のあるダンサーである。ほっそりしていて、ちょっと退廃的で、でもピュア、みたいな不思議な雰囲気を立っているだけで匂わせることができる。私は基本的にそういうダンサーって好きなのである。例えば言葉で言うなら、唇から言葉が飛び出して、その言葉が音声となり終わってからはじめてその人の「意思の存在」が「音声言語」としてやっと認識できるような感じではなくて、今言葉を発しようとして開き始めた唇や小さな手の動き、全身の揺らぎからもう何かが伝わり始めるような感じが好きである。彼女は勿論動いても素敵なのだが、いわゆるダンス的なムーブメントとムーブメントではない佇まいのバランスが魅力的なダンサーである。
今回素敵だったのが、彼女の「こける」動作である。一般的な言葉遣いでは、そのような動きのことを「こける」とか「たおれる」というのが妥当なのだと思うが、作品『G-spot under your skin』において行われるその動作は、日常的に「たおれる」「こける」と呼ばれる動作が持つ意味をまったく裏切る。日常的には「たおれる」「こける」は、「失敗」「痛み」「悲壮感」などといったイメージを伴いやすい。しかし彼女が行う「それ」にはまったくその感じがないのであった。身体運動としては日常でも頻繁に起こりそうな動作を全く違うムーブメントとして「生みなおす」ことは、実は容易なことではない。動作の難易度としては、恐らくダンス・ダンスしたステップを披露するよりも楽かもしれない。だからこそ動作を自動的に記号的に読み取る能力しかない人間には目の前で起こっている「これ」が何なのか、理解できなかったかもしれないし、困惑しちゃうかも、などと思った。うふふ、たのし。そんなわけで、私は床に向かって新しいバランスをとり続ける彼女の身体を妙に安心した気持ちで見ていた。
会って直接本人に伝えたかったが、残念ながら機会がなかったので後日そのことをNS嬢にメールで伝えた。実は私が感じたことは、彼女が「うっかりすると既成概念にまみれて見失われるかもしれない」リスクを犯しても伝えたかったことと矛盾せずに重なっていたようで、彼女は私の感想を喜んでくれた。是非長いバージョンで見てみたい作品である。

J&Mの『I was born』は、二人芝居のための戯曲をダンス作品にしたものである。この作品では、ある意味、残酷な物語が展開する。
作品の内容もそうなのだが、製作過程や楽屋裏においても。
ただし彼らの名誉のために言っておくが、製作過程のハードさが私の目に垣間見えたからといって、それは本番に疲れが見えていたとか、作品の感想が「たいへんでしたね」で終わる出来だったという意味ではない。
楽屋裏がどんなに過酷でも、作品がよければそれでよい。からだのどっかがどうなったって、そんなことはどうでもいい。恐ろしいことだが、本気でそう思ってしまった。だって良かったんだもん。本番。からだはそう使ってこそ意味がある。(ただし、過酷に使えばすなわちよい作品が出来上がるというほど甘いものではない。念のため。自分のからだをどう用いて何を表現したいのか、それが見えているからこそ、過酷さを犯して使う意味があるのだ)
作品の内容自体も、男と女の間に存在するある意味残酷な関係を表現したものである。けして楽なお話ではない。出来たら目を背けたいような内容(「子供がつぶれる」とか)も存在する。しかし向き合う男女。
いい感じです。ますます今後が楽しみ。

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