えこひいき日記
2005年7月22日のえこひいき日記
2005.07.22
ロンドンで2度のテロ。まだ詳細が分かっていない事件だが、それにしても「テロ」という言葉に免疫が出来つつあるわが身が恐ろしい。理不尽な理由で多くの人が亡くなる事件を珍しいと感じなくなることが恐ろしい。
そして今回のロンドンの事件では「テロリスト」とされる人物が「外国人」ではなく「英国籍を持った“外国人”」であったことが、9.11以降の標語「テロとの戦い」の内実の複雑さの一部を露呈している気がする。「テロ」は「テロリスト」という「異邦人」によってなされた凶行だと、アメリカやイギリスは位置付けしたいのだろう。しかし「異邦人」を生み出しているのが自らの内部の構造からであることを、もう無視してはいけないような気がする。
しかしまた、その解決策(?)あるいは抑止策(?)として「差別をなくそう」とか「偏見を捨てよう」などという言葉を簡単に唱えることの空しさも知っている。空々しい「標語」(標語にしてしまうことは、ある認識を植え付け、論議をストップさせることに役立つ)という意味では「テロリスト」と大差ないレッテルだと思う。自分と異なる意見をもつ人間の存在を理解し、その意見を理解するなどということが、言葉でいうよりずっとたいへんなことであることは私なりに認識しているつもりだ。
だって、個人が「現に自分が行っているにもかかわらず自分ではしているつもりのない行為(癖)」の存在を認識することですら容易くないのだもの。その「癖」を「テロリスト」ほどではないにせよ、「悪者」と決め付け、「自分で生み出したもの」ではないような顔をする人たちを、私は仕事柄たくさん見てきている。「悪さから存在を認知したかもしれないけれど、それだけのものでもないよ」と認知し、それをまっとうに努力して建設的に変えることには更なる努力と根気が要る。でも、大事なことだと思っている。そこで開かれる人間の可能性を信じている。だからこの仕事をまだ続けているんだけれども・・
それにしても、人を殺すにも、その復讐で(あるいは抑止?で)人を殺すにも「正義」という大義名分が欠かせないことにはなんとも複雑な思いがする。「人殺し」が悪いことだとどっかで分かっているからこそ、問答無用に思考停止を要求するコトバのジョーカー「正義(あるいは大義)」で自分を守ろうとするのかもしれないけれど。
そんなうさんくさい「正義」、いらない。正義って<人がふみ行うべき正しいみち>って意味らしい(by広辞苑)し、言葉自体はとっても正しいコトバなのだが、これを使う人間自身も言葉とおんなじくらい正しいとは限んない。みなさん、いっかい「正義」を疑ってみません?そしたら正しい正義と、うそやろーっていうセイギの見分けがついて、自分がどう<正義>を使いたいのか、使いたくないのか、少し分かってくるかもしれませんから。