えこひいき日記

2005年8月6日のえこひいき日記

2005.08.06

先日、某カード会社のポイントが溜まったので、何をもらおうか考えた挙句「体脂肪計付き体重計」をもらうことにした。これは体重、体脂肪とそのレベル、内臓脂肪とそのレベル、BMI値、基礎代謝量などが測定できるものである。すでに体重と体脂肪が測定できる機器はもっていたのだが(体脂肪を足から測定するやつね)、より細かく測定できる機器(こいつは体脂肪を足からと腕からとで計る)で計測すると何か意外な結果でも出ないものかと思って、注文してみた。
早速使ってみたが、なんら意外性のある回答は得られなかった。
あくまでも「私の場合は」であるが、足だけから計る機器と今回もらった計測器が示す体脂肪の数値にはたいした差は見出されなかったし、体脂肪も内臓脂肪も少な目か標準くらいで、じつにふつーの結果であった。普段、基本的に好きな時に好きなだけ食べ、時にはたくさん食べる(パスタ300グラムとか、パッタイ(タイ風やきそば)2人前とか、今はしないけどケーキ最高12個とか)上に仕事以外では買い物くらいしかからだを動かさないので、なーんか意外な数値でも出るものではないか、と期待(?)したのだが、実に普通であった。
この体重計は事務所に置いてあって、使ってみたい人には使ってもらっている。身長、年齢、性別をいちいちインプットしてもらう手間はかかるが、何かの目安にしてもらえる情報を得てもらえるなら嬉しい。(先日もあるクライアントさんが使ってみていたのだが、意外性に富んだ結果を出していて、なかなか面白かった。本人にとっても意外だったらしいので知ってもらってよかったことかと思う)

ところで私のパートナーはなかなかりっぱな体躯の持ち主なのだが、先日得度し、秋から加行(いわゆるお修行)に入るのを期に「動物性の食物を絶つ」実験を始めた。お寺では無論食事は精進料理になるのだが、その他の場所でも実験的に1年間菜食をしてみよう、と思い立ったようである。そしてときおり例の体脂肪計付き体重計を使ってみて、自らの身体にいかなる変化が起こるのかを測定するつもりのようである。「実験」という、自主的かつフットワークの軽い動機付けであるせいか、すっぱりと突入した菜食は意外にも苦ではないらしい。
体重に関する実験は、かれこれ15年位前に一度やってみたことがある。どこまで太れるものか、実験したのである。私の場合、「普通の精神状態」をキープしたままでは50キロの壁を突破することが出来なかった。同様に「普通の精神状態や生活状況」をキープする範囲内では、38キロ程度にしか減量できないこともやってみてわかった。つまり私が「普通の私」という恒常性をキープできる体重の範囲はこの差10キロの間ということになる。その範囲を超えた体重になろうとすると、何か、本質的に自分の思考とか、行動などを変質させなくてはならなくなる、つまり「狂う」感覚が生じるのだ。だから、一見減量に比べれば楽で、ただひたすら食べ続ければよさそうな増量ですらも「普通の精神状態」ではあるうちには自ずと限界が生じたのだった。
私はあくまで自主的・実験的に(続ける自由も止める選択肢も自分の気軽な意思次第という状態で)この体重操作をやったので気が楽ではあったが、それ以外の条件で体重の増減に悩んでいる場合は「体重(身体)の恒常性と精神の恒常性の関係」は浅くしか認識しないかもしれないと思ったりする。自分の経験の中からいうと、例えば強いてダイエットなどしているときには思うように体重が減らないのに、ダイエットしなくてよいとなるとすっと体重が落ちたことがあった。そのときは「なんでやー」と思ったが、そのときにも薄々は気がついていた。私は「みかけ(他者が自分をそのようにみている・認識していると認識している自己像)」というもののためにダイエットしようとしていただけで、その目標体重はいわばなんら私の「人格」とつながった数値ではないのだと。急激なダイエットをしたことのある人が少なからず経験するリバウンドという現象も、「自分」を形成している生活習慣や思考や嗜好がなんら変わっていないのに、「ひとりだけ」変化してしまった「肉体」という名の人格の一部を奪還しようとしている「自己」の働きの一つなのかもしれない。
本来、こころの問題であれ、精神の問題であれ、肉体の問題であれ、それは問題を見出した領域だけに限定されるものではなく自分自身の様々な部分とリンクしているものである。どの領域に問題を見出したにせよ、人格に深く食い込んだ「それ」を本当の意味で変えたいのならば、「全体」の協力体制が大切である。レッスンでお会いするクライアントさんを見ていても、とても熱心で、「変えたい」と言いながらも、実際のところ思うようには変わらない方がいるが、それは「問題」は見えていても「全体」やそのつながりにリアリティを持てていないからではないか、というケースが少なからずある。
限定され、「問題」への認識と一体化した自己像からいかに自分を解放するか・・・それは時に根気を要するやっかいな仕事である。
しかし同時に、たとえそれがこれまでの生活からしたら大きな変革であっても、それが肉体を含め、自己にとって「必要なこと」という意味で「自然」と感じられたなら驚くほど滑らかに変化することができたりもする。クライアントさんでもそう言うケースはたくさんあるし、今回のパートナーの菜食がそうであるかもしれない。

かくいう私も「なんとなく菜食」を続ける結果になっている。強いて続けようとか、パートナーに付き合おうと思ったわけではないのだが、高野山から下山して以来そういう感じになっている。ずーっと以前、減量のために「野菜は食べてよい」みたいな制限食を摂った経験もあるのだが、そのときは辛くて楽しくなかったのだが、今回は何の苦もない。やはり「強いる」つーやつが「苦」の元なんだよな、「野菜」が「苦」なんじゃなくて。
また野菜を主体にした食事を作っていると、調理時間が短くて済むことにも気がついて、家事が楽でよい。料理というのもおこがましいほど簡単なおかずだが、キャベツを茹でるか蒸すかして、胡麻とポン酢をかけたものだけのものでもけっこうおいしくて、食が進んだりする。あと生麩焼いたりね。
さて、そうして菜食をしていると体重は減るのかと申しますと、今のところ減りません。まったくダイエット目的ではないので体重は変化しなくても良いのですが、多分今後何らかの体調的変化は出るかと思うので、経過を見ていきたいと思う。うふふ実験・実験。

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