えこひいき日記

2005年8月20日のえこひいき日記

2005.08.20

知り合いの仔猫が突然亡くなった。生後2ヶ月ほどの命だった。
この仔猫は知り合いの着物デザイナーさんが自宅近くで保護(なんでも母親猫が育児放棄をしたそうだ。他の兄弟猫たちは皆死んでしまった)していたのだが、ご自宅には既に大勢の猫たちがいて、この子が家族になると猫家族の数が二桁の大台に乗ってしまうということもあり、里親募集中の猫であった。
私も猫と暮らす身であることから、彼女から声を掛けられた。しかしライフスタイルからしてその子を私は引き取るのは無理。どうなるか、仔猫の行く末・・・と思っていたところ、幸いなことに私の知り合いで猫を引き取ってもよいという方が現れ、顔つなぎをしていよいよお引越しか、という段階まできていたときの、突然の訃報だった。
夜、もらったかまあげをわしわし食べて、普通にしていたのに、明け方突然様子がおかしくなって、夜が明ける頃にはもう死んでいったのだという。

猫の死を知らせてきたデザイナーさんのメールには突然のことへの戸惑いと悲しみ、そして「ごめんなさい」「許して」という言葉が並んでいた。「ごめん」の宛て先は、私と、猫を引き取ろうとしていた人へと、そしてその仔猫への。
猫を亡くしたとき(猫に限らないだろうが)、できる限りのことを全部尽くしたとしても、仕方のないことだとどこかで思っていたとしても、まだ何か自分に出来ることはなかったのか、それを怠りはしなかったのかと思ってしまうことがある。彼女の「ごめん」はその気持ちだったと思う。
メールに返事を書いたが、でもなんと書いてよいものかわからないというのが正直な気持ちだった。亡くなった猫さんにと、お花を彼女に送った。できるだけかわいい花を選んでアレンジしてもらった。

死ぬ前の日に撮ってもらい、こちらにメールに添付して送られてきた仔猫の写真が遺影となってしまった。猫は屈託のない顔をしてカメラのレンズを見上げている。
短い命だったが、猫は最後まで幸せだったと思う。そう私が思いたいだけだろうか。でもそう思う。

私、人間やってますが、どの命にも平等に優しくなどない人間だと思う。例えば日々報道される交通事故のニュースにも「ひえー」とは思うが、この仔猫へほどの悲しみをいちいち傾けるかというと、そうではない。嬉しいとか悲しいとかいう気持ちは対象が自分にとってリアルかどうかで決まる。ただ、自分にとって限られたリアルなものをより深く理解していくことがそれ以外のものへの理解や認知につながることはあると思う。そういう意味で、私は猫を通して世界を観ている。猫の死を通して人間の死を考え、生を考える。自分を考える。

自分の猫が死ぬときが来たら、私は多分猫に「ごめん」と思ってしまうと思う。そのときになってみなければわからないが、何か具体的に謝りたいことができているかもしれないし、何もなくてもきっと思ってしまうだろうと思う。私の心はいつもどこかで猫の死を拒絶しているから。拒絶なんて出来るもんじゃないとわかっていてもどこかで「ずっと一緒に生きていこう」と思ってしまっているから。神様や自然の摂理を脅迫するつもりはない。これはただの願い、祈りである。叶えてほしいから祈るのではない。叶わなくても、それが私の気持ちだから、祈る。
では自分が死ぬときに私は誰かに対して「ごめん」「許して」と思うかな。何をごめんと、何を許してと思うかな。わからない。今はまだ。
人生の最後の時に謝ってしまうかもしれないけれど、でもなるべく誠実に生きようと思う。それは少しだけでも私の人生に関わってくれて、でも先に行ってしまったものたちへの礼だとも思ったりする。

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