えこひいき日記

2005年10月17日のえこひいき日記

2005.10.13

日々レッスンを通していろんな方に会っているといろんなことがある。

私はこの仕事をするにあたって、心に留めていることがある。私の仕事は人の痛みや苦しみに触れることが多い仕事だ。痛みや苦しみの種類も、肉体の一部がしつこく痛んだりするようなものから、特に痛いところや苦しい箇所があってもなくてももっと自分を向上させたいという苦しみ(こちらの方が実は深くて本質的な苦しみだと思うが)まで、いろいろある。肉体的な症状を伴いながらも精神的というか、思考的な領域まで含むものも少なくない、というか、ほとんど全てがそうである。しかもそれらの問題は昨日今日始まったものではなく、本人が意識しているか意識していないかに関わらず、かなりの“歴史”を持っていることが多い。そういう意味で、ひとさまの“痛み”は重い。
でも、私は“痛み”に向き合っているのではなく、“その人”に向き合っているのだという意識を忘れないようにしようと思っている。
クライアントの“痛み”の重さに負けてしまうことは、ある意味らくだ。“痛み”とクライアントを同一視してしまって、それと「敵対構造」を構築して戦ってしまうこと、「勝つ」ことを目指すことが自分の仕事のように思い込む方が楽である。実際に「敵」と思ってしまった方がどれだけ自分の心が楽だろうと思えるようなクライアントもいる。「そんなこともしらないのか」とか「こんなこともできないのか」みたいなことばっかり言ってクライアントの「痛み」や「状態」を敵にまわして自分を守って教師が勤まってりゃ、アレクサンダー教師なんて「ちょろい仕事」だと思う。でも、「知識」とか「技術」って「敵」を「倒すためのアイテム」じゃない。そんな使い方しか出来ない教師がいたら、そいつはあほ(教師に限らず、あほやけど)。「知識」や「技術」は、その向うにある何かに向かって手を伸ばすための手段でしかない。
でも自分が“痛んでいる”ことを笠に着て、自分が周囲に対してどれだけ無礼であるか、それが巡り巡って自分の心身を傷つけ続けていることに関心を払わない人は少なからずいる。自分の“痛み”“おびえ”をまるで他者を傷つけることのできる“権利”であるかのように振りかざす人すらいる。(ほんとうに、自分の存在を社会的地位にしがみつくことでしか認められなかったり、“おびえ”と“プライド”を勘違いしている場合は本当にたちが悪い)

苦しみから脱したいという意思(?期待?)はあるようだがそのために自分を変える努力をしないクライアントをみていると、「ストックホルム症候群」という言葉を思い出す。これはストックホルムで実際に起こった事件に由来するコトバだが、その意味としては「犯人と被害者の間の心的(相互)依存状態」を指す。通常、被害者が自分の身を守るために必要以上に犯人側の心理に自分を寄り添わせたり、好意を持つ状態をいう。ストックホルムで起こった事件は確か銀行での立てこもり事件だったと思うが、しかしこの心理状態はけして「銀行強盗の立てこもり事件」のような特殊環境の中でだけ起こるものではない。銀行強盗は他者の目から見ても容易に「異様な状態」と認知してもらえるが、もっと“日常的なやつ”は誰もなかなか見抜いてくれないかもしれない。職場や家庭、あるいは自分自身の認識の中でけっこう「ストックホルム」は珍しいことではないのではないかと思う。少なくとも、私の仕事・レッスンの場においてはしばしばそれを感じる。「助かりたい」といいつつも「犯人」に味方する「被害者」。ややこしいのは、レッスンでの場合、「犯人」も「被害者」も同じ一人の人間(自分自身)であることだ。

そういえば、先月私は二人くらいのクライアントに「このままそんなことをし続けて、死ぬ気ですか」という意味のことを言ってしまったことがある。こんな言葉、できれば使いたくないのだが、でも単なる脅しのような意味で大げさに言ったわけではない。本当に危機的だと思ったのだ。
一人は摂食障害と並行してうつ症状や睡眠障害がありこのままでは内臓の疾患をも心配しなくてはならない状態。社会生活からもどんどん隔離されてしまう。そういう状態を何とかしたいといいつつも、決定的に何かが好転しそうになると彼女は逃げ出してしまうのである。突然「私は病気じゃない。これは私の性格なんです」と言い出したり「病院や先生は私を太らそうとする」と言い出したりして抵抗する。検査のために病院に足を運んでもらっても、自分で勝手に情報操作して適切な診察を受けてこなかったり、待合室でパニックを起して泣き喚いたりする。うつ状態の人間が極端に変化に対してセンシティヴになることはよくあることだし、普段のレッスンの中でも少し極端な反応をすることは珍しくない。しかしこうした抵抗はそれ以上のものである。病んでいる自分自身を保全しようと思うほどに、彼女は障害と一体化してしまったのだろうか。
もう一人は、仕事への依存から過労状態が常時化しており、それが原因の一つと思われる特定の内臓疾患を繰り返し、何度かメスも入れている。身体はすでに何度も警報を鳴らしているというのに、仕事を休むことが出来ない。身体的な負担と精神的な負担はつのる一方で、夜中に自宅で暴れて物を壊したり、つい会社の部下に厳しく対してしまったりすることもあるという。前記の摂食障害のクライアントが普段定期的にレッスンに来るのに対し、彼女は不定期にしか来ない。自分で自分をどうしようもできなくなってからやってくる。だから今回に限らず、彼女に会うときは彼女がかなりひどい状態のときが多い。定期的にレッスンにこないのは「忙しいから」「なかなか時間が合わない」と本人は言っているが、本当はコンスタントに自分の問題に向き合う勇気がないのだろうと私は思っている。それでも向き合わないよりはましなのかもしれない。でも、それでは果々しい改善は望めない。
頻繁に来て、やっと少しずつ距離を縮めても、いざとなったら「パニック」という奥の手で逃げてしまうクライアントと、ぎりぎりというところでやって来て、それ以上の落下を食い止めようとするクライアントと、どちらのレッスンの受け方がよいかなんて、私には分からない。私に何ができるのだろうか、どのように関わるべきなのだろうか、あるいは関わらないべきなのだろうか・・・と私は何度も自問自答してきた。果々しく、決定的な改善をいまだみない状態であったとしても、私という存在が存在しないよりは存在しているほうが彼女達のために「まし」なのかもしれない、とも考える。でも「まし」であるだけで、本当によいのか、とも思う。
私だけではなく、彼女達にはそれぞれ医師も関与して助けになろうとし、家族も関わってくれている。それなのに彼女達はどちらもとても「孤独」だ。一般論的に話を広げれば(つまり、彼女達のケースがそうという意味ではなく)、依存的傾向を持つ患者ないしクライアントの治療ないし改善過程では、医師との関わり方や家族の介入の仕方が必ずしもベストではないゆえに当事者が「孤独」になるというケースもある。しかし多分、たとえあと何人専門家が彼女達の治療や改善過程に加わろうとも、あるいは入れ替わろうとも、そのこと自体では彼女らの「孤独」は本質的には解消されないのではないかと思う。なぜなら本来彼女達の「味方」になるべく関与する他人を彼女らはどこかで「敵」にもしているのだから。「孤独」とは敵にしなくてもよい人間を「敵」と見なすことでしか自分を守れないと思ってしまったときに生じるものだ。
「死んじゃいますよ」と私が言ったとき、後者の彼女は「嬉しそう」な顔をしたように見えた。自分で自分にいえないコトバを他人の口から聞いて「やっぱり」と思っている感じ、というか。私は複雑な気分になった。この安堵感が、思い切って改善に踏み切る原動力になるのではなく、彼女自身が彼女自身を仕事依存にとらわれたままにしておく「理由」にされてしまうかもしれないな、と思ったのだ。辛い状態の彼女は、安心感に飢えている。不安の中で少しでも明るいものに縋りたいという心理を抱えている。たとえそれが本質的な光明ではなくても、しがみついてしまう体勢にある。助かること、安心することに焦っているのだ。だからそれが「しんじゃいますよ」というようなきつい言葉であっても、それが彼女にとって何か納得できるものであるほどに、それはある種の安心感に変わり、その安堵感をもってして「だからもう少しこのままでいい、このままがんばれる」というようなすり替えがなされてしまうかもしれないな、と思ってしまった。
現に彼女はとっくに限界の肉体を引きずってまだ仕事を続けている。先日道でばったり会ったときも青くやつれた顔で「元気です。また行きます」などと笑顔を作っていた。
私は正直、暗澹たる気持ちになった。こういう瞬間にはさすがにダメージを感じずにはいられない。見えない銃弾で不意に撃たれたような気がしてしまう。本当に、一瞬真剣に死にたくなる。私が死んでも彼女達が助かるわけではないのだけれど。誰かのために誰かが苦しんだらどちらか一方が助かるなら、物事は楽でよい。そんなんでいいなら、世の中貞子ちゃんの呪いのビデオより簡単だ。でも現実にかけられた「呪い」はビデオの呪いより少し複雑。

個人的には“勘違い人間”にも“ストックホルム”な人にも関心はない。憎んだり哀れんだりする興味すらもない。苦しみや痛みはけして歓迎すべきものではないが、それ自体が卑しいものではない。苦しくても、痛みがあっても、とても真摯に向き合っているクライアントだって大勢いる。そういうクライアントとのレッスンがとても創造的であるのに対し、必要があれば個人として関心が持てない人間にも最善と考えられる対し方で向かい合わねばならない。
よいなと思えるレッスンの内容よりも、やだなと思ったクライアントのことやその他の「やなこと」が芋ずる式に頭の中を占拠しだすと、私は多分「レッドゾーン」に入りかけと思う。人間としても、職業的にも。

というわけで明日の夕方から熊本に逃げます。

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