えこひいき日記
2006年4月9日のえこひいき日記
2006.04.09
最近はいろんなことがあってくにゃくにゃである。一日の終わりには「もう一歩も動けない」というような感じになり、それとともに自分の非力さ、ふがいなさ、至らなさというものが大蔵ざらえのように、あるいはパレードのように脳裏にあふれかえって実に最低な気分のまま眠りに落ちる日々であった。幸い朝になると少し気分が回復していて「今日も何とかがんばろうね」と思える状況であることは救いなのかもしれない。数日前までは食事をしても吐いてばかりいたが、その嘔吐もようやくおさまりつつある。
そういえば以前、時たまお世話になる内科医に私の嘔吐について話してみたことがあった。この医師は東洋医学の心得もあり性格も温厚かつグローバルな方であり、私の仕事のことも(全容はお分かりではないが)知ってくださっているので何かと話しやすい。医師の目から見ても私の嘔吐は不思議な現象のようである。「風邪のときに、そのウィルスが消化器に入って軽い胃炎のようなものを起こし、それが嘔吐を引き起こすことは在りますが、この場合はねぇ」という返答であった。大雑把な言い方であるが「ストレス性のもの」という認識では共通しているので、対処については「適当に」ということで落ち着いている。
しんどいときにかまわれることも嫌ではないが、放っておいてくださることも嬉しい。「放って」といっても、それが心地よいのは「見捨てる」「無関心」とか「逃亡」ではなくて、自分に出来ることを提供した上で相手を基本的に信頼し、相手のタイミングを待つ、という意味の「放る」だからこそであろう。そういうふうに感じられる状況にあることが本当にありがたい。関わることだけが関係性ではないと思うからだ。
昨年の秋くらいからのことだが、思うところがあって、毎日事務所の近くの六角堂にお参りに行くようになった。なるべく仕事前に、なるべく毎日お参りさせて頂いているのだが、時間の関係や事務所に出てこない日にはお参りさせて頂かない日もある。だからあくまで自分のできる範囲で「毎日」という感じなのだが、そうやって通わせて頂いて見えてきたことが自分なりにある。
最初に自分の胸に去来した思いは「何を祈るか」であった。六角堂の観音様や不動明王様の前で手を合わせるときに自分は何を思うのか、という問題である。いわゆる「願い事」、頼み事があって参っているわけではない。いや、まったくないわけではないのだが、「これこれを成就させてください」と「観音様に」頼む、というのはなんか違うな、と思うのである。物事を成就させるための具体的な行動や努力は自分で行うべきものであって、それをしないうちに神様仏様に願うというのはあまりにも虫が良すぎる、というか、おこがましい気がするのだ。しかし私がすべき努力は努力としてあるものの、それでも祈る心、何事かを願う心は依然としてあるのであり、それをどのようなかたちで神仏の前で吐露すべきなのか、吐露すべきでないのか、大変迷いもしたのであった。だから六角堂に行って手を合わせても「なにも(自分からは)思わないように」してみたこともある。それでも心に浮かんでくることだけと向き合おうと思ってみたりしたのだ。
そうしているうちに、祈る気持ちはあっても何を祈るべきなのかわからなかったところに言葉が生まれるようになり、心の中で文章をなすようになった。それは本の短い文章であることもあれば、自分でもよくこれだけずらずらと出てくるな、と思うほど長いセンテンスになることもあった。
それと時を同じくして自分の中に生まれたのは、うねり出るような「感謝」の気持ちだった。正直に言って、自分でも少し驚いてしまった。自分を支えてくれる人たちに対しては勿論、関心を持ってくれない人たちにも感謝する思いがあった。私が仕事ができ、生きていけるのは積極的な意味で私に関わり支えてくださる方々によってのみではない。関心を持たず、すれ違っても目さえあわせず、記憶にも留めない人たちもいてくれることで、私の自由は成立する。そのことに関して、観念的に思うのではなく、ほとんど触れて撫でられるような、ある種の実感が生まれたような気がする。直接顔や名前を思い浮かべられる方々に対する感謝だけではなく、間接的な形でもコンタクトが皆無ではない方(例えば実際にお会いしたことはないがこのサイトを見てくださったり、著作を読んでくださった方など)への感謝、さらにいうならどこの誰とも知らないし、会ったことがあるのかないのかもわからない誰かにも「存在」というものを認識し、その存在に感謝する気持ちが生まれた。
こんなふうに書くといい子ぶっているようで気恥ずかしいが、嘘ではない。以来わりと「普通」のテンションで、つまり特別なこととしてではなく、私は毎日「私に関わってくださる方」の一部として、クライアントさんの幸福を祈っている。何が個々のクライアントさんにとって「幸福」なのか、具体的には違うと思うし、正直、私が祈ったところで具体的に相手にとってはどうなるものでもないと思う。だからこそ個別には対応しきれない「それ」について祈るのかもしれない。定期的のお会いする人も、一度だけお会いしきりの人も、お互いのニーズが違っていてお力になれなかった人も、ひょっとしたら何らかの事情で関心を寄せているのにまだ実際にはお会いしていない人に対しても、また恐らく私が生きているうちはご縁がなくお会いすることがない人についても、その「幸福」について祈る。そしてダイレクトとはいえないけれども、そうした方々の「幸福」が私の幸福の状況につながっている気配を感じている。
また、最近気がついたことは、「本当に仏と向き合う」ことの難しさである。ある日はっと気がついたのだが、毎日毎日足を運んでいても、実は本当には向き合っていないのではないか、と思ったのだ。六角堂は西国巡礼三十三箇所の第18番札所でもあり、天下の池坊(華道)発祥の地であり、平安京を造営するときにちょうど中心となる予定の道とぶつかることがわかったために「どいてください」と乞う造営者(?)リクエストに答えて飛びのいたという「六角石(へそ石)」がある観光地である。そのため、六角堂はそんなに大きなお寺ではないが人の出入りは絶えない。私が足を運ばせていただいたときにたまたま人がいないこともあるが、そんなことはむしろ稀で、たいてい人がいる。しかもけっこういたりする。そうすると、つい他の参拝者や観光客がしゃべっている声や読経の声、(彼らが私をみているわけでもないのだが)彼らの目、というかふるまいがなぜか気になったりして、仏様よりもそちらのほうに気をとられているのではないかと思える一瞬が在ることに気がついたのだ。最初はそんなことにすら気がつかなかった。しかし気がついてみると、いかんね、と思った。
そこで最近は努めて気合を入れて足を運ぶことにしている。自分は仏様に向かい合うために足を運ぶんだ、と思い、わずかな時間とはいえそこにいる間きちんと仏と対峙し、おいとまするということをコンプリートすることに心的エネルギーと体力を費やすことに専念するよう心がけている。考えてみれば「あたりまえ」のことなのだが、意外とこの「あたりまえ」のことが成されていなかったりするのである。うぬぬ。
私はけして信心深いわけでも、ひとつの宗教を熱心に信仰している人間でもないのだが、「仏」と呼ばれる存在が以前より自分にとってリアルになったような気がしているのは、気のせいだろうか。考えてみれば、これまでは「お参りに行く」ことは季節や時節ごとのいわばイベントであり、「誰にまみえるか」ということよりも、その行動を取るだけで精一杯、というか、手を合わせ、祈っても、その「相手」がリアルではなかったような気がする。しかし今は、実際に人に会いに行くのとあまりかわりない(というと大げさかもしれないが、でもその)くらいリアルになってきて、楽しい。