えこひいき日記

2006年6月14日のえこひいき日記

2006.06.14

予定外のときに用事が入ったりして観たい舞台も観にいけない、という事態はたまに起こるものだが、そういうことはなるべく起こって欲しくない(起したくない)と思いつつ、起きてしまう。先日もチケットを予約していた舞台を観損ねて、大変ブルーになった。不義理をしてしまったなぁという思いもあるし、何より楽しみにしていたというのに。うぅぅ。

そういう事態の直後だったゆえに何事も予定外のことは起こってくれるなと警戒心を持ちつつ迎えた本日、坂東玉三郎さんと「鼓童」の舞台『アマテラス』を観にいった。私は坂東玉三郎さんのファンなので歌舞伎や舞踊公演、バレエなどの舞台はたくさん拝見しているし、あと、シャンソンのCDなども所持しているが、鼓童さんの生の舞台を拝見するのははじめて。このコラボレーションがどんな世界を生み出すのか、想像もつかないまま観にいった。
以前この「えこひいき日記」にも書いたことがあるが、私はサッカーの動きが「音楽」に見えてしまうことがある。ただ、常時そう見えるわけではない。むしろ、ノーマルな視力の問題として動きは見えるものの、その動きの意図や流れがなんらそれ以上のものには見えないことの方が多い。でも、本の稀に訪れるその瞬間はやはり楽しく・・・楽しいという以上に幸福で、何か人間にとって本質的に幸福と感じられるものがたまたま通常「サッカー」や「音楽」という形式で表現されているだけで、人にとって幸福だと感じられる何かの元は一つなのではないかと思えるほど、「サッカー」が「音楽」に見えても違和感がない。(今、ワールドカップやってるけど、ロナウジーニョさんの動きなんて「ダンス」だと思う方が分かりやすいもんね。あるパスワークとか、バレエのテクニックにそっくりだし。彼は「踊れている」ときほどやっぱりすごいプレーをする)
同様のことは他の場面でも起こることがある。例えば(これはかなり意図的に実験していることだが)テレビでオーケストラの演奏を音声を消して見ていても「音楽」が聞こえるときはやはり素晴らしい演奏だったりするし、音声を消してダンスを見ていても「音楽」が聞こえるようなダンス公演もまた、ダンサーのからだそのものが奏でている「音楽」を別の人間がそのからだと楽器を通して「音」にしたり、別の人間が「衣装」や「背景セット」にしていて、通常はそれを「音楽」だなどと感じていないだけで、本当は壮大なオーケストラ演奏の曲のようなものなのだな、と普通に納得したりできることがある。稀だけれども。
私が何を「音楽」と感じているのかは自分でも上手くいえないが、それはいわゆる楽譜に書かれ、通常CDで売られている「あれ」のことを指しているわけではなく、言葉とはまた違う意思の流れのようなもの、のような気がしている。
前置きが長くなったが、『アマテラス』での鼓童の太鼓の音は明確な「セリフ」に聞こえた。弦楽器のように広範囲の音域を持たない打楽器たちがあれほどはっきり「意思の流れ」を示唆するのを初めて感じたような気がする。かと思えば、小さな「セリフ」のやり取りがやがて「何を伝えているか」ではなく「そのやり取りを続けることの喜び」に変わり、よりフィジカルなうねりへと変化していったりする。耳にコンスタントに聞こえているのは「音」に他ならない。しかしそれが「何に聞こえるか」は実に多様なのだと、改めて感じて面白かった。
さらに個人的に面白かったのは、インターミッションでの客席のざわめきに感じたことだった。この「ざわめき」はもともとは個人個人が発した意味のある言語である。しかしそれが同時多発的に発せられることで、発音された音は言語には聞こえず「ざわめき」というものに聞こえる。言語として発せられたわけではない太鼓の音が「言語」に聞こえ、言語として発せられた言葉たちが「音」とも認識されきれない不定形の音に帰することに、紙に書かれた漢字をじーっと眺めているうちに「この画像が意味するものがわかっていたはずなのにわからなくなってくる」というゲシュタルト崩壊に似た感覚を感じ、こういうことも、天岩戸に隠れてまた出てくるアマテラスの物語にふさわしい現象だろうか、などと思ったりして、一人面白がっていたのであった。

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