えこひいき日記
2006年6月18日のえこひいき日記
2006.06.18
南座に『アマテラス』を観にいった翌日、縁があって元伊勢を訪ね、天岩戸神社を訪ねた。雨の中であったせいもあり、他には人っ子一人いなかったが、天岩戸神社はとてもよいところで気持ちが晴れやかになった。
しかし同じ日にとても悲しくなるニュースを聞いた。それは丹生都比売神社のご神木に誰かが穴をあけ除草剤を注入したせいで、その杉のご神木が枯れかけているというニュースである。ちょうど1ヶ月半ほど前に縁があって丹生都比売神社にお参りさせていただいたところだった。そのときには何ともなかったのに。
ニュースでも様々なコメンテーターが「一体誰が、何のために」と言っていた。私も同感ではある。ご神木とはいえ、杉の木を枯らすことで犯人が何か得をするとは思えないし、恐らく直接的に神社に恨みのある人や、ご神木に恨みがある人の犯行でもなかろう。「一体誰が、何のために」などとつぶやいてしまうのは、直接的ではない悪意が起す犯罪が存在する、ということへの戸惑いに他ならないように思う。逆にいえば、「悪意」や「犯罪」は何か明確なものだと思い込んでいるところが私にもある、ということである。
他になんと言い表すべきか分からないので、「悪意」という言葉を私は使ったが、多分、犯人は自分がしたことについて明確な「悪意」は自覚していないのではないかと思う。少なくともその「不明瞭な悪意」は具体的対象に対するものではないのではないだろうか。
この「的もなく、直接的でもなく、明瞭でもない悪意」によって行われる犯罪というものが最近多いような気がして、私は心底怖いのである。直接的に恨まれて襲われるのだって十分怖いが、故のあることであれば端たいてい「襲う」などというアナーキーな行為に行く前に話し合ったりするチャンスがある。私の知る限り、まっとうに的を得た「恨みごと」ならば、話し合ってお互いの思いを公開すれば解決できるように思う。そういう「恨み」って、たいてい情報不足がもたらすものだからだ。しかし本人にも「どうしてこんなことをするのか分からない」というようなことは、怖い。だって、防ぎ方や解決の仕方も極めて難しいからだからだ。何せ、当事者にも「わからない」と言わしめるものが原因だからである。
しかし考えて見れば、この事件ほど不可解ではなくても、世の中の心痛む事件というのは、どこか「なぜそんなことをするのかわからない」行為の目的の不明瞭さを含んでいるような気がする。純粋に直接的で目的が明瞭な犯行、というものが果たして本当にこの世に存在するのかわからないが。例えば、今回杉を枯らした人間は、多分「杉を枯らしたかった」のではなく、「別のもの」を破壊したかったのではないかと思う。同時に、周囲や社会というものから大事にされていない自分に対して、「大事にされているもの」が妬ましく、それ「大事にされているもの」が自分のほかに在るがゆえに自分が不幸であるような、「大事にされているもの(ご神木?)」が自分の「敵」のように思えてしまい、それを攻撃することが本当に自分が向かい合うべきものへの代替行為のように思えてしまうのかもしれない。
でも、それって恐ろしく時間の無駄というか、どう考えても解決から遠いことだと思うのだ。「別のもの」に目的があるのに、「別のもの、じゃないもの」をターゲットにして、かりそめに自分の不幸を中和しようとするなどという小手先の工作に溺れられる脆弱な精神を保有することが、私は怖い。それはきっとたいした気晴らしにすらならず、勿論解決からは遠く、その人はただもっと不幸になるだけだもの。自分がやっていることが「おかしい」と気がつかなければ、出口はない。
少し前のことになるが、ある町の高校生が同じ町に住む一人暮らしの写真館のお爺さんを殺害した、という事件があった。高校生はその日先生から素行について注意を受けて「むしゃくしゃしていた」というが、そのことにお爺さんは何の関係もなく、また計画的に「お爺さんを」殺そうとも思っていなかった証拠に、高校生は押し入ったお爺さんの家にあった物でお爺さんをめちゃめちゃに殴り、殺していた。
たまたまなのだが、この写真館のお爺さんに私はお会いしたことがあった。たいした話をしたわけではなかったが、二言三言交わした用事の会話の中にも、とても温厚で穏やかな感じを感じた人であった。
ニュースでこの殺人事件が報道されたときにも、私の脳裏に浮かんできたのは、穏やかな彼の口調であった。私が現実にそのお爺さんについて知っていることはあまりにも少ないが、しかし彼が殺されなくてはならない理由も、死の気配も、私には思い当たるものがなく、それゆえにニュースを聞いたときはショックで心臓が急速冷凍されるような痛みを覚えた。こんなこと、あってはならないと思う。でもそう思うことが起こりうる、少なくとも、起こってしまった世界に自分は生きている。そんな現実の中に自分も生きているということがたまらなく痛い。自分の力で世の中が変えられるなんて思ってはいないけれども、変えられないことが、無力と思える以上に痛い。
後日、その町を訪れたときに写真館の前で手を合わせた。事件からは少し時間がたっていたのだが、玄関にはたくさんの花が手向けられていた。
覚鑁上人(1095-1144)という密教の高僧が書かれた文章にこういうのがある。
密厳院発露懺悔文
我等懺悔す、無始より来かた妄想に纏はれて衆罪を造る。身口意業、常に顛倒して、誤って無量不善の業を犯す。珍財を慳悋して施を行ぜず。意に任せて放逸にして戒を持せず。屡々忿恚を起して忍辱ならず。多く懈怠を生じて精進ならず。心意散乱して坐禅せず。実相に違背して慧を修せず。恒に是の如くの六度の行を退して、還って流転三途の業を作る。名を比丘に假って伽藍を穢し形を沙門に比して信施を受く。受くる所の戒品は忘れて持せず。学すべき律儀は廃して好む事無し。諸佛の厭悪し給う所を慚ぢず。菩薩の苦悩する所を畏れず。遊戯笑語して徒らに年を送り諂誑詐儀して空しく日を過ぐ。善友に随はずして痴人に親しみ善根を勤めずして悪行を営む。利養を得んと欲して自徳を讃じ勝徳の者を見ては嫉妬を懐き卑賤の人を見ては驕慢を生じ富饒の所を聞いては希望を起こす。貧乏の類を聞いては常に厭離す。故らに殺し誤って殺す有情の命顕はに取り密かに取る他人の財触れても触れずとも非梵の行を犯ず。口四意三互いに相続し佛を観念する時んば攀縁を発し経を読誦する時んば文句を錯まる。若し善根を作せば有相に住し還って輪廻生死の因と成る。
行住坐臥、知ると知らざると犯ず所の是の如くの無量の罪今、三宝に対して皆発露し上つる。慈悲哀愍して消除せしめ給え。皆悉く発露し盡く懺悔し上つる。乃至法界の諸の衆生三業所作の是の如くの罪我皆相代わって盡く懺悔し上つる。更に亦其の報いを受けしめざれ。
覚鑁上人御作
ぞっとするほどの名文である。私はたまたまぱっと開いた密教関係の書物でこの文を発見して、なんてすごい文章、なんてすごいことを書く人なのかと思ってしまった。
私が「すごい」と思ってしまったのは、まず、この文章に込められた「覚悟」の強さに対してである。「かくご」なんていうと、例えば殴られる前に痛さや衝撃を「かくご」してぎゅっと目を閉じるようなことを思い浮かべてしまうかもしれないが、私が感じたのはそういう「あきらめ」や「のがれられない不幸への予想」としての「かくご」ではなく、今起こっていること、これから起こるだろうことに対して目をそむけずに当事者として対処しようという「自覚」のようなものである。思えば呼んで字の如しなのかもしれないが、「覚悟」とは「おぼえる・さとる」という、現実への認識なのである。
この文章の中にある「故らに殺し誤って殺す有情の命顕はに取り密かに取る他人の財触れても触れずとも非梵の行を犯ず」という態度、つまり「そのつもりがあってすることと、そんなつもりはなくてやってしまったこと」の両方を「自分のこと」として受け止める覚悟は、物事を改善に向かわせるときに不可欠なものである。自分の仕事に寄った観点でいうならば、ここにある「誤って殺す」「密かに取る」「触れずとも犯す」といった行為を「自身の行為」として受け止められるか否かは「無意識のからだのくせ」を改善する際の最大のポイントとも言えることなのである。私のところにやってくる多くの人は「そんなことやっているつもりはない」が実際には「やっている」恒常的な力みや動かし方の誤りが原因で自らの身体を痛めている。しかしあくまでも本人にとっては「やっているつもりのないこと」なので、その行為は認識せず、結果的に生じた歪みや痛みや動きにくさのみを認識していて、まるで「被害者」のような気持ちでいることも少なくない。その「被害者」が実は「加害者」であったことに気がついたときの衝撃は、小さくないことが多い。勿論、全ての人にとってそれは悲しい衝撃に感じられるものではなく、気がつかずに結構ひどいことをしていたことへの反省や悔恨はあるものの、それよりも「もうこれ以上こんなことを続けなくてもよいのだ。他にやり方があったのだ」という開放感というか、「これから」のことに目を向けてくださる方も少なくない。気がつくことは時に痛いけれども、しかしその気付きがあるからこそ、もう二度と同じ間違いのループはまることはないし、仮にはまりそうになっても自力で脱出できる力を得ることができる。
しかし中には反省も覚悟もなく、ただ嘆いたり、気がつくことの痛みから逃れんがために「そんなことをしたつもりはない(ゆえにそんな事実はない)」と言い続けるひともいる。あるいは「それはからだの問題ではない」という言い方で逃げようとしたり、「私はこんな痛い状態になっているのに、その上努力しろだなんてひどい」という人もいる。苦労しないとよきものが手に入らないというわけではないが、やるべきことをやらないとおこるべきことがおこらないのは道理。その過程において、「状況や物事が良くなること」イコール「無痛」というわけではないこともあるが、これとてその人のものの考え方や状況によって異なるものだから、絶対にそうなるというものではない。感覚や思考が保守的な人や良くも悪くも思い込みが強い絶対主義者(根拠は定かでない場合もあるが、「こうあるべき」「こうなるはず」という主義や理念が、実際に起こっていることよりも優先される考え方の持ち主)ほど、全ての変化が自身の予想や理念を裏切る苦痛と思えることは少なくないので、たとえそれが「良い方向に向かっている」過程であっても「(これまでと違うがゆえに、それが不安で)苦しい、痛い」という感覚になることがある(このあたりのことは、拙著に詳しくあるので、よかったら読んでみて欲しいが)。
当然ながらそう言う方のレッスンは進歩に乏しいので、こちらからお断りしなくても辞めてくださる方が多い。力になれないのは残念だが、本人に「そのつもり」がないことを無理に変えるわけにもいかない。相手の了承がないのにこちらが仕事上の技術を行使することは「改善」という名の「暴力」になりかねないからである。しかしながら、お断りしてこちらの気持ちがせいせいと晴れるわけでもない。仕事上、受け入れざるを得ない一線であると分かってはいるが、その人が私の目の前にこなくなることはすなわちその人の中で何かが解決されることではないことに、やはり気持ちが痛くなる。
たまーにそれよりさらにややこしいケースに出くわすこともある。自分では自覚する勇気も覚悟もないのに、他者には「プロなら私をよくしろ」「金を払っているのだから私の気分をやわらげろ」と要求だけはしてくるのである。どうやらこういう人たちの自己意識はあくまで「被害者」であり、自分を助ける他者であるはずの「プロ」への認識は「金さえ払えば何でも捨てていいゴミ箱」のような意味合いらしい。そういう人たちこそプライドは高く、他人を信用したことはなく、用心深く批判的である。自身が何がしかの仕事で「プロたらん」とする努力をしていないわけではないのだが、残念ながら努力の仕方が間違っていることも少なくなく、ただの「印籠」としてその「プロ」という称号にしがみついているだけであまり中身がない方も居るし、「要求されたことが何でもできることがプロ(あるいは、人によく思われたり、役立ったりすること)」であるかのように勘違いして溜め込んだストレスをこちらに向けているに過ぎないこともある。
「やつあたりは、たいした気晴らしにもならず、まして解決策にはならない」というごくシンプルなことが理解できない人たちもいるのだ。その「理解の出来なさ」は人格によるものではなく、状況によるものだと思いたい。でも、どうなんだろう、とも思う。一時的な状況で、こんなこと続かないだろうと思っていたことでも、続いてしまえば変えがたいと思えるほど手強いものになり得る。それは仕事上、よく知っている。
幸い、私の十数年の仕事の中ではそういう人たちに稀にまみえる程度で済んでいるが、何度あっても慣れるどころか、結構悩んでしまう。何を悩むかというと、「どうしてこの人はこのように考えてしまうのか」が私には主体的には理解できないこと、「どうしてこんな苦しい繰り返しを本人が(助けて、といいつつ)止める気にならないのか」ということ、「これらの状況の中で、本当に私は相手を遠ざける以外にて助けが出来ないのか」についてである。
木村敏氏の名著『異常の構造』のあとがきはこんな言葉で締めくくられている。
私は本書を、私が精神科医となって以来の十七余年の間に私と親しくつくあってくれた多数の分裂病患者たちへの、私の友情のしるしとして書いた。そこには、私がしょせん「正常人」でしかありえなかったことに対する罪ほろぼしの意味も含まれている。
(『異常の構造』 木村敏・著 講談社現代新書 1973年初版)
この言葉がいつになく重く感じられる今日この頃なのである。
(「謝罪」ではなく「罪滅ぼし」というところが大きいんだけれどね)