えこひいき日記
2006年7月6日のえこひいき日記
2006.07.06
アレクサンダー教師を日本で10年以上やっていると、後進の教師たちからいろいろと相談事を受けることも多い。私のところへレッスンを受けに来てくださるアレクサンダー教師の方々へのレッスンの内容というのは「こういうクライアント(生徒)がいるのだが、どのように指導するとより分かってもらえるだろうか」「自分のhands-on(レッスンを受ける方のからだに触れる手法)をチェックしてほしい」とか「自分自身のからだのメンテナンスのため」という「その人自身」に関わることが多いのだが、中には「日本で乱立する気配のある“団体”についての悩み」という、やや社会的ないし政治的な問題が持ち込まれることも少なくない。
彼らからの相談とは別に、先日私のところにもある人たちから“団体設立の発起人になりませんか”という紙面が送られてきたのだが、そこにはちょっと戸惑う内容が書かれていた。「ふざけているんだろうか」と思ったりもしたが、どうもそうでもないらしい。これが送り手の書き間違いや表現が著しく稚拙という問題ではなく、本当に書かれている通りの事を考えているのだとしたら、少し問題と言わざるを得ない。
純粋な気持ちで自分のことに集中するためにレッスンを受けに来てくださるクライアントさんたちには「預かり知らぬこと」だと思うし、こういう問題にクライアントさんを巻き込むかもしれないのは非常に心苦しいのだが、現実の問題として、現在の日本のアレクサンダー教師の質はまさに玉石混合である。しかも、どっちかというと「玉」ではないほうの人たちこそが、自分の資質を確かめずレッスンのグレードを上げる努力もそこそこに自己保身に勤しみ、いかにも「公式の団体」のような印象を受ける大げさな名称を冠した団体を立ち上げようなどと画策をされているようで、実に悲しい。
アレクサンダー・テクニックは以前よりずっと一般的知名度が上ってきたようではあるが、しかし海外での事情と同じようには、国内で安定した資質の教師をとりまとめるほど成熟した状態に達しているとは私は思っていない。しかしそれでも、近未来的にさらに日本のアレクサンダー・テクニック教師の活躍の場が広がることを予想して、アレクサンダー・テクニック教師の社会的立場の保護や、興味をもってくださる方に広くアレクサンダー・テクニックを理解していただくための適正なガイドとなる“協会”を設立する方向への準備を進めていくのだとしたら、それは厳正かつ謙虚で公平なつながりでなくてはならない、と思っている。つまり、“協会”の代表や音頭取りが誰になるにせよ、協会の存在がその人物に私有化されることなく、「情報提供」以上の「宣伝」を慎み、個々の教師の活動を制約しない“ゆるやかな”共同体であるべきだが、それは最低でも世界的な水準で教育されたレベルの教師たちで構成されているという最低限の“品質保証”の上に成されるべきつながりであると思っている。なぜなら本来アレクサンダー・教師とはあくまで“団体職員”ではなく“教師”であり、しかもマニュアル化されたことを一様に広めるような仕事ではなく、ひとりひとりのクライアント(生徒)といかに誠実に向き合い指導していくことができるかという“個の仕事”を職務としているからである。“個”として立てない人間にかぎって束になって団体を作り、そこで「自分は役立っている」と思うことで自己肯定をする例はどこの世界でもあるものだが、人間をタイプや傾向で大雑把に扱うのではなく、一人一人のからだのありように踏み込む職業をしているからこそ、教師同士が“つるむ”ことと“ネットワークをもつ”こととを容易に混同してはならないし、団体として“普及”にいそしむよりも、個として偽りのない仕事をすることでアレクサンダー・テクニックを必要とする方に理解していただく努力をすべきだと思っているからこそ、私は安易な団体作りには警戒感を禁じえない。
これまでも私はこのホームページの中で何度か、アレクサンダー教師の養成機関にはいわゆる“公認”団体と“非公認”団体とがあり、残念ながら現段階では公認の教育機関は日本に存在しないことを書いてきた。しかし“非公認”の団体だから即だめ、というのではなく、「そこまでしてアレクサンダー・テクニックを学びたいと思った熱心な人たち、と言えなくもない」と書いたり、個人の持ち前の資質や努力によってそれを凌駕する人物もいるかもしれない、とも書いてきた。しかし現在のところ、私が期待するようには現実は動いていないようである。
私自身「学校を作らないか」という話を持ちかけられたことが過去何度かあったが、断ってきた。なぜなら、胸をはって送り出せる教師を輩出できるプログラムを作るには、欲しい教員やスタッフがまだそろっている状況ではないからである。間に合わせの学校を作るのでは意味がない。
したがって、アレクサンダー教師の仕事を一つのプロフェッショナルと認識する以上、私は現段階においてはこう言わざるを得ない。私はアメリカやイギリスで標準的に定められている教育プログラムの内容を、“恵まれたプログラム”とは思っていない。あたりまえの、“最低基準”だと思っている。それはその教育プログラムが“貧しい”といっているのではない。むしろ、ACATなどの養成プログラムは充実していて、やることも多いし、教師になるまでの道は厳しいものである。しかもそれをもってしても、卒業後全ての教師が仕事に恵まれるわけでも経済的に保証されるわけでもない。でも、それをクリアしなくて何がプロの教師であろうか。アレクサンダー教師はそれほど甘い仕事ではない。
ずっと以前に、国内でアレクサンダー教師養成プログラムを行っている団体に、厳正な入学審査も落第制度もないことや公正さに欠ける教育プログラムの内容的貧困を指摘したときに、卑屈な口調で「芳野さんはエリートだから・・」と返され、呆れた経験があることは以前にも少し書いたかもしれない。私が呆れ、悲しかったのは、他者からもたらされる「現状肯定的ではない意見」を論議することもなくただ単に拒絶し、しかもそれを「エリート対“非”エリート」という矮小化された対立構造にすりかえようとしたことである。このようなことから察するに、要するに彼らは「よりよい教育プログラムを作るための苦悩」をするよりは「自分の王国作り」のために学校や団体を組織したいに過ぎないのではないかと思う。その程度の考えで行う教師養成プログラムがとりもなおさず国内の教師の質を貶め、自分で自分の首をしめていることになぜ気がつかないのかと思う。しかも自分が何をしているのかに気がつかない人間に限って「僕達だってがんばっているんです」など涙ながらにいったりするが(実際にそうされた経験がある)、私に言わせれば、それは残念ながら努力の仕方が間違っている。私は断じて“エリート”ぶるつもりなどないが、教育水準と仕事に対する考え方の問題からして、彼らと同じ扱いで“アレクサンダー教師”と呼ばれるのは愉快ではない。
そして今回送られてきた文面の製作者はその養成プログラムの関係者(代表)のようだが、それを見る限り、あの論議にもならなかった会話で感じた彼らの傾向が変わったとは思えない。確かにその人物は、日本にアレクサンダー・テクニックを紹介したパイオニアの一人ではあるし、海外から教師を呼んできてワークショップを行うコーディネーターとしては功績があると思う。個人としてもけして悪い人ではないと思う。しかしそれをもってして教育プログラムや団体に関する行為を是認することはできない。
無駄なごり押しハードワークを努力と勘違いするようなことは、からだの使い方を教える仕事をしているとよくまみえることだが、そのような行為の続行をinhibitする(自覚を持ってやめる)ことこそアレクサンダー・テクニックの骨子であるというのに、仮にもアレクサンダー教師を自称する人間がそんなことにも気がつかないとは、とても情けないことである。
こういう瑣末な事柄にクライアントさんたちを巻き込むことになるかもしれないのはとても心苦しいし、私自身もあまり関わりたくない。だからこれまでは「放置する」という態度を取ってきたのだが、しかしこのままでは事態が好転するものでもないらしい。かといって、ただでさえ成熟しきらない日本のアレクサンダー教師同士がお互いの違いを理由に戦うというのも望ましくないし、仮にそのようにして自分や自分が組織ないし所属する団体が勝つ(?)ことがあったとしても、実に空しいと思う。争わないほうがよいに決まっている。しかし争わないために理解なき組織化に参加するというのもまた空しい。
もしかしたら私もこの問題に対してなにごとかアクションを起さなければならない時期が来るのかもしれない。悲しいことだが。熱心で優秀なアレクサンダー教師たちのためにも「悪貨が良貨を駆逐する」ような事態にならないよう、“アレクサンダー教師”と名乗ることが恥ずかしいと思うような事態にならないよう、切に願う次第である。