えこひいき日記

2007年10月19日のえこひいき日記

2007.10.19

仮にも人にモノを習いにきたくせに、目の前にあるモノを見ようともしない人間は嫌いだ。見ないどころか、目の前にあるモノを自分の既存の思い込みの中に押し込めようとする。そうすることが「モノゴトがわかる」ということだと思っているのだろう。いかに自分のものにするか、とか、納得する、腑に落ちる、という実感よりも、さっさと片付ける、「ああ、それって、要するにこうなんですよね」と矮小化することが「わかる」ということだと思っている。だから自分のしていることを恥じもしないし無礼とも思わない。なぜなら自分自身が何をしているのかわかっていないから。
そういう人間は嫌いだ。でも悲しいかな、ひとさまにモノを教える仕事なんぞしていると、そういう人間が目の前に来てしまうことがある。先日、久々にそういう人がきた(しかもその人間が一応ジャーナリズムに関係する人間だから、やだ。取材したがっているのも、気が重い)。そういう人間が目の前に来てしまうと、腹が立つとかいうよりも、冷ややかな悲しさのようなものを覚えてしまう。がっかりする。自分の仕事が嫌になる。でも、それは「仕事」が「嫌」になったのではなくて、そういう人間に出くわしたのが仕事を通してだったから嫌な気分になっているだけであって、本質的には「仕事」の問題ではないことは自分でわかっている。結局は人間の問題。
だからどうすべきか、考える。一応、相手は私の生徒、クライアント。クライアントでない人間なら無視して終わりなんだが、一応私は相手にモノを教える立場の人間。できれば、私が「こう」と言うことで相手が自分のことをこうだと思うのではなく、会話やレッスンの中でそれがいったい何事なのかに気がついてほしいと願う。モノゴトは「こう」と規定されたときに生まれるものではなく、先にコトが在るんだからね。
あ、でも「こう」と言って「こうだ」と覚えさせることが「教育」だと思っている人もいるらしい。私に言わせればそれは「教育」じゃなくて「調教」や「洗脳」なんだけど。

ものを学ぶ、教える、というのはどういうことなのだろう。
高校生のときに一度真剣に悩んだことがある。
高校生のとき、大学の先生や研究者が書いた一般向けの本をいろいろ読んだことがある。そこに書かれている「研究」や「学問」というものは、苦労もあるし、大変そうだけれども、楽しそうに思えた。一般的な生活レベルでは「きにしないこと」「きがつかないこと」をぐんとクローズアップして取り上げて、真剣に研究されている姿は面白くもあり、おかしくも感じられた。だって、ある方向から見たら「なんでそんなことを真剣に・・・」と思われることを必死に研究していて、それがまた結構私たちの生活にも関係していたりして、おもしろいな、と思ったのだった。
でも当時、私は自分のやっている「勉強」というものが楽しくなかった。研究者は大学に進学し、さらに大学院にも進学し、そして教職や研究職についている人たちである。当時の私と同じように、高校生だった人が大学に行って、研究をしているはずなのである。でも、私には今自分がしている「勉強」が「研究」につながる行為とはどうしても思えなかったのだ。テストのたびに行う「テスト勉強」なるもの。考えていることは、何を理解しているかよりも、どうやってそこそこの点数をゲットしてテストをやり過ごすかということ。どんなに必死に「勉強」しても、テストが終わった途端覚えたことは消えてしまう。先生だって「テスト」に必死だ。時々生徒の注意をひきつけるために「ここ、テストに出すから」と脅し文句のようなものを放つ。こんなことを繰り返していて、どこが「研究」につながるんだろう。そこには似て非なる何かがあるような気がして仕方がなかった。
そんなことを考えていたので、私の成績はがたがたになった。興味のある科目はいわゆる「テスト勉強」をしなくても点が取れたが、それ以外の科目に関しては「テスト勉強」すらする気が起きなくなって赤点寸前まで落ちた。担任は「頼むから平均的な成績を出してくれ」と言ってきた。
それでやっとわかった。私がやっている「勉強」はやはり「学問」ではない。「学問」は他人に脅かされてやるようなものではないのだ。自分の中に「それをする理由」があるから苦しくても楽しいんだ、と。でも、「勉強」している内容と「学問」の内容がぜんぜん違うものというわけでもない。そこにある違いは、たぶん、内容ではなく関わり方の違い、主体性というやつである(これは今だから言える言葉かもしれないが)。
そうはいっても、テストである程度点を取らないと具合が悪いのも事実。でも「学問」と「勉強」の違いと共通性がわかったので、気分はずいぶんさっぱりしたので、テストに関しては「攻略ゲーム」として取り組むことにした。したいかといわれればそんな「ゲーム」、したくはなかったが、でも私は心のスイッチを切って「ゲーム」に参加した。いつも心がオフのままでは苦しいけれど、心のスイッチをオンにしないとできないことは別にあるとわかったから、いい、と思いきった。

私は不安を原動力に自分を動かしたくない。できれば。できるだけ。成績や偏差値に脅えてだって「勉強」はできるが、でもそれは本当の意味で勉強していることにはならない。病気や老後のことが怖くて健康に気をつけても、まあ一応病気にはならずにいられるかもしれないが、その行為は健康的といえるのだろうか。それでも表面的には「勉強している」ようにみえるし、「健康」そうにみえる。「そうみえる」ことに胡坐をかいてしまえば、人から馬鹿にされる不安も、まだ将来に対する不安も消えるのだろうか。でもかろうじて消えるのは泡のようにあらわれては消える不安の一粒であって、そんな「あぶくつぶし」が本当に自分のしたいことなのだろうか。結局、不安感を原動力にしても大して良いことはおきないと思う。不安から太だめをそむけて幸福な不利をしてもだめだけどね。ともあれ、生きている間しか生きていられないのに、そんなことをして生きてていいのかしらと思ってしまう。
「からだ」のことも、ともすれば不安や痛みを通してばかり認識されがちだ。でもそれは「からだ」に対する本質的な態度というわけではないと思う。大切なのはその「からだ」で何がしたいか、どう生きたいか、である。だから仕事においては本質的に「身につく」学習をするとはどういうことなのか、を考えてきたつもりである。

だから私が教えている「からだの使い方」がただのHow toもの、ただ見かけ格好の問題で姿勢をよくしたりするもの、単に痛みをとる方法のように誤解をされると、正直すごく傷つく。「どうでもいいから、いい姿勢になる方法を教えてくれ」みたいなことを言われるとげんなりする。
でも、仕方ないのかな。本やウェブサイトに書いていても、読まない人は読まないし、読みもしないからわかってもいないのに「わかってます、わかってます」などといって悪びれない。対面しても、人の言うことに耳を傾けようともしない。残念ながらそういう人間はいるわけである。
私にできることは、不愉快な感情を抱きがらも、そういう人間にあまり執着せず、ただ自分のすべきと思う仕事をしていくことだけなんだろう。伝え続けていくことだけなんだろうな。しんどいけど。しんどくても。

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